俳句随想
髙尾秀四郎
第 96 回 金子兜太の俳句
たっぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし 兜太
冒頭の句は冬男師の生家である熊谷の常光院に、冬男師の句「行けどゆけど大虹のしたぬけきれず」と共に建立されている句碑に刻まれた金子兜太の句です。埼玉県出身で、俳句結社あしたの会とも所縁の深い俳人です。私が俳句結社あしたの会に入会して3年目の平成5年(1993年)にあしたの会は創立25周年・俳誌300号記念の祝賀会を開催し、金子兜太、暉峻康隆、井本農一、石原八束、今泉宇涯、山下一海の各氏の他、俳壇の著名な方々が参列され2時間に及ぶスピーチをいただきました。その口述筆記を担当した私は、えらい役目を負ったと思う反面、大変勉強にもなったと思っていました。この中の金子兜太氏は当日高知から会場である神田の如水会館まで駆けつけられ、到着後すぐのスピーチとなりました。そのスピーチは軽妙で洒脱、石原八束氏の「内観造形」を引用して、「あした」の俳句について、「内観」を目指し「象徴」を求めているから誌面が重い、とけなしつつも、近頃は「新月並みの時代」で、読者におもねった句ばかりを受容するが、そんなものは一過性であり本物志向が最後には残る、その意味で「あした」の俳句は残る、と最後は持ち上げておられました。多くの方々の口実筆記をする中で、この人は紛れもなく頭が良いと思わせる一人でもありました。兜太氏はまた、私の句集「探梅」に氏の体形にも似た例の太い字でお褒めの葉書を送っていただきもしました。今回は埼玉が生んだ戦後俳句の巨人・金子兜太氏の俳句について書いてみようと思います。(以下、敬称略)
まずは一般的な金子兜太の経歴を記します。1919年9月23日、埼玉県比企郡小川町生まれ。旧制熊谷中学、旧制水戸高等学校を経て東京帝国大学経済学部に入学後、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事。卒業後日本銀行へ入行し、その後は海軍主計中尉としてトラック島で200人の部下を率いる。終戦後日本銀行へ復職し、福島、神戸、長崎の各支店を経て1960年に東京本店に戻る。1947年に「寒雷」へ復帰し、沢木欣一の「風」創刊に参加。主唱する社会性俳句運動に共鳴し俳句造型論を展開して自身の創作方法を理論化する。1962年に隈治人らと同人誌「海程」を創刊し、1985年より結社誌となり主宰に就任。上武大学教授、現代俳句協会会長など歴任。2018年2月20日に急性呼吸促迫症候群で死去。
次に兜太と俳句との繋がり、兜太俳句が生まれた経緯等に触れる経歴を書いてみます。まず兜太の父・金子元春は開業医で、「伊い せきこう昔紅」の俳号を持ち水原秋桜子の「馬酔木」に所属していました。父が歌詞の改定に携わった秩父音頭は「七七七五」で五七調、七五調は、日本書紀以来の日本の古い叙情形式の基本であり、それが「耳から頭の中に染み込んで、やがては体に染み込んだ」と述懐しています。兜太が幼少の頃、家で開く句会には秩父の山国育ちの筋骨隆々で野性的ながら頭が良い連中ではあったものの、句を作っては議論していて、その男たちを人間として非常に魅力的だと感じていたようです。ところが「酒なくて何の句会かな」と、そのうち酔っぱらって俳句に関係ないことで喧嘩が始まり、その喧嘩を止めるのが父は好きで仲裁に入ってはあちこちで「やめろっ」とやる様子を日常的に見ていたとか。つまりそんな野性的な男たちを魅了する俳句と五七五の語調が兜太の体には沁み込んでいたのではないかと思われます。そして大学を出て日銀に入り、すぐに海軍に入って配属されたトラック島では200人の部下を率い、餓死者が相次ぐなか、2度にわたり奇跡的に命拾いをして1946年に捕虜となった後、最終復員船で帰国しています。帰国後日銀に復職しますが、身を俳句に置いて自分の中に籠ってばかりではいけない、外に向かって発信しなければという思いから社会派の俳人と言われるようになっています。
この経歴の中でご紹介した「俳句造形論」を説明した文章に次のものがあります。「造型論の目指すところは、従来の方法はいずれも対象と自己との直接結としての素朴な方法であるとみなし、これに対し『造型』は、作品を創造する過程において、対象と自己との中間に『創る自分』を設け、その意識活動を通して、主としてイメージによって作者の内面意識を造型しようというもの」
しかし、実際に句を作る時にどうすればこの論ずるような俳句を作ることができるかを考えると途方にくれてしまいます。つまり分かりません。むしろ兜太が自伝の中で語っている、かつて幼い頃、俳人の父の許に集まった野性的で知的な若者たちが議論し、時に喧嘩をして俳句を作っていた現場を目の当たりにした兜太の次の言葉の方がずっと理解できますし、この俳句造形論の本質ではないかと思います。
「(私には)俳句をやる人間の匂い、体臭が、魅力として染み込んでいました。だから俳句人間だと言っているんです。気取って「俺のアイデンティティは俳句だ」って言うこともありますが、これは余り迫力ないですね(笑)。まあ、それ程、俳句が大好きなんです。いや好きも嫌いもないんですよ。自分自身が俳句だし、」
また別の対談では次のように語っています。(一部要約しました。)「子規が主観と客観を二元化したものとして捉えているが、自分はその二つ、二物を全部自分のなかで一緒にしてしまう。ドロドロに溶け込ませてしまう。すべてを自分の中に取り込んで、自分のなかのものとして映像化するものだと。それに対して私は造型って言葉を使っているわけです。」
では、そんな俳句造形論の兜太の句をいくつか拾ってみます。
階下の人も寝る向き同じ蛙の夜
鰯雲故郷の竈火いま燃ゆらん
冬旱眼鏡を置けば陽が集う
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく
彎曲し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン
人体冷えて東北白い花盛り
霧の村石を投(ほう)らば父母散らん
暗黒や関東平野に火事一つ
梅咲いて庭中に青鮫が来ている
おおかみに蛍が一つ付いていた
去勢の猫と去勢せぬ僧春の日に
縄とびの純潔の額を組織すべし
白服にてゆるく橋越す思春期らし
三月十日も十一日も鳥帰る
金子兜太の俳句を語るには、この紙幅では足りないようです。言い換えれば、それ程魅力溢れる人物であり、味わい切るには相当の努力を要する俳句であるということかと思っています。