俳句随想
髙尾秀四郎
第 95 回 石原八束の俳句
八束の訃白夜の国で受くるとは 冬男
巻頭の句は、ドイツ・バウトナウハイムでの冬男師の句碑が建立されることに合わせて組まれたドイツ・北欧への旅の中で、石原八束氏の訃報を受けた冬男師が詠まれた句です。この旅には私も同行しましたが、石原八束氏の訃報を受けた冬男師の落胆ぶりはかなり大きかったように記憶しています。同じ年になる平成10年(1998年)のあした誌10月号は、創刊から四十年の節目の年であったことから、40周年記念号として360ページに上る大部の特集号でした。その冒頭の挨拶文の中には、あしたの会を立ち上げた際にご支援を受けた方々へのお礼の言葉が綴られており、具体的なお名前として、金子兜太、有馬朗人、白石かずこ、女優の富士真奈美諸氏の他、石原八束氏のお名前も挙げられていました。
今回はそのような、「あした」とご縁の深かった石原八束氏の俳句について述べようと思います。(以下、敬称略)
石原八束は山梨県錦村二之宮(現・笛吹市御坂町二之宮)生。父親は俳人の石原舟月(起之郎)。本名は「登」でしたが、病弱であったため生後一ヶ月で長命を願い「八束」に改名しています。ちなみに「八束」とは手で八つ握った程の長さを指し、長く生きて欲しいという親心が伺えます。1937年(昭和12年)、父の俳句の師である飯田蛇笏に師事します。この際に八束が9歳の時に詠んで温めていた「流人墓地寒潮の日の高かりき」の句が蛇笏の目に止まり、三好達治が著した「諷詠十二月」の中で蛇笏の推称文とともに紹介されたことから、八束の名前が一気に世に出ることとなりました。そして八束は蛇笏の俳誌「雲母」に投句を始めます。1943年(昭和18年)には中央大学法学部の大学院修士課程を卒業しています。戦後「雲母」発行所が八束の父である石原舟月の東京世田谷の自宅に移転し、そこで蛇笏の子息・飯田龍太とともに「雲母」編集に携わります。1949年(昭和24年)より三好達治に師事。1956年(昭和31年)には、「馬酔木」に「内観造型への試論」を発表しています。1960年(昭和35年)より、三好を囲む「一、二句文章会」を自宅にて毎月開き、1961年(昭和36年)、俳誌「秋」を松澤昭と共同で創刊、のち主宰。1976年(昭和51年)、第六句集『黒凍みの道』で芸術選奨文部大臣賞受賞。1997年現代俳句協会大賞受賞、同年『飯田蛇笏』で俳人協会評論賞受賞。1998年7月16日、呼吸不全のため死去しています。この亡くなった数日後に、冬男師が冒頭の句を北欧で詠んだことになります。
八束の句の作風は、彼が幼少期から病弱で三十代に至っても喀血を繰り返し、結核療養を余儀なくされるなど病と隣り合わせの人生であったことと無関係ではないようです。八束のエッセイの中で「私の句作修行は病弱のために始まったようなものである。」とも言っています。また病床句の中には「血を喀いて大夕焼の中に臥す」のような壮絶な句も数多あります。
蛇笏に主観写生を学びつつ、八束は病弱な体を抱えて死と向き合いながら人間の内面を注視する作風を獲得するようになります。持論の「内観造型」は、外的な自然を諷詠するのではなく、自然の中に身を据えながら人間の内部を見ることを説くものです。「石原八束俳論集」の中で八束は自らの俳句について次のように述べています。「自然との対話がなくて俳句は成り立たない。今日の文学が人間への興味に、人間の掌握に終始していることは言うまでもない。俳句しかりである。俳句にあっては、自然は人間と窓を接してつながっている。窓の中に人間という文学の本体がいるのである。その窓が即ち季語、季題として俳句で取り上げられたものである。この窓を通して作者が内から外の自然を見るのは従来の自然写生句である。自然の中に作者が身を据え、この窓を通して人間と言う内部を見るのが、いわば内観というほんとうの俳句であろう。作者とその対象とする人間の間には、この季語という窓があるわけである。」
この外的な自然を諷詠するのではなく、自然の中に身を据えながら人間の内部を見ることを説き、そのために季語は季節感を表すだけの言葉ではなく作者の心模様、心境も表現する言葉であり、季語は二面性を持つものであると説いています。
では八束はこの「内観造形」として、どのような句があるかを見てみましょう。
雪の上を死がかがやきて通りけり
落葉焚きゐてさざなみを感じをり
夜明前の蛍は空にのぼりけり
くらがりに歳月を負ふ冬帽子
ひらくほど紅さしてくる大牡丹
仁王の眼を啄けら木鳥がたたけり高野谿
崩れむとして白牡丹羽ひらく
悪玉が笑へり赫き盆の月
煮凝やいつも胸には風の音
素顔さへ仮面にみゆる謝肉祭
血を喀いて眼玉の乾く油照
達治亡きあとはふらここ宙返り
闇ふかき天に流燈のぼりゆく
雁も船も海峡わたるとき迅し
胸さびしゆゑにあかるき十三夜
雪の上を死がかがやきて通りけり
原爆地子がかげろふに消えゆけり
確かにこれらの句に用いられている季語は季節感と共に作者の心象や時代をも代弁しているように思われます。最後に掲げた句「原爆地子がかげろふに消えゆけり」は、八束が大学卒業後に入社した三菱重工業の本社勤務の頃に詠まれた句のようです。1945年(昭和20年)の春に、八束の上司が長崎に転勤しました。そしてその上司は同年の8月9日に投下された原爆で、所長以下三千六百人共々一瞬にして爆死したのです。八束はその後、度々長崎を訪れており、この句はその頃に詠まれたものです。この句の季語「かげろふ」は、季節感は勿論のこと、八束自身の心象と共に時代の空気までもが込められているように感じられます。