俳句随想

髙尾秀四郎

第 94 回  臼田亜浪の俳句

郭公や何処までゆかば人に逢はむ  亜浪

冒頭の句は臼田亜浪が故郷長野の渋温泉で病気療養中に詠んだ句です。亜浪はこの地にて高浜虚子と出会い、彼に師事すると共に俳句に傾倒してゆきます。

この渋温泉は岳父・篠原弘脩の生まれ故郷である信州中野の外れにある温泉で、岳父の親戚が温泉旅館を経営する角間温泉とは川を挟んで目と鼻の先にある温泉であり、家内と結婚後、岳父に連れられてしばしば訪れた地でもあります。温泉街と言う華やかな印象とは正反対の鄙びたむしろ湯治場という言葉が相応しい所で、かつてその地区も競技会場となった長野五輪では道路を始め様々な施設が新装されましたが、その中でもその佇まいが余り変わらなかったことを考えれば、臼田亜浪が病気療養で泊まっていた渋温泉は当時と今とさほど変わっていないのではないかと考えられます。そう考えると、亜浪が生きていた当時の状況は私が見聞したあの場所とほぼ同じであったということであり、亜浪の姿が随分と身近に感じられます。

臼田亜浪はまた家内の遠縁にあたるようで、俳句随想第28回「俳句と人生」の中で書かせていただいた、彼女の叔父にあたる近藤五郎氏(俳号:梧郎)の句集の作者紹介の箇所で次のように紹介していました。

『彼の句歴として次のように記されています。「大正三年二月十五日生まれ。成年後、叔父にあたる臼田亜浪の「石楠」に入会。亜浪没後はいずれの会にも入会せず、老人俳句会の指導をしてきたが、九十歳に至って、その任も後輩に譲り、今はのんびりと句作を楽しんでいる。作句は吾が心の憩いの場である。」と。』つまり臼田亜浪は家内の叔父の叔父に当たるようです。随分と遠い親戚ではありますが、辛うじて姻戚ということになります。ということで、今回は臼田亜浪の俳句について書かせていただきます。

臼田亜浪は長野県北佐久郡小諸町(現・小諸市)に生まれ、当地の小諸義塾に学んだ後、1904年和仏法律学校(現法政大学)を卒業。在学中に短歌を与謝野鉄幹に、俳句を高浜虚子に学んでいます。通信社記者、業界紙の編集長を経て、やまと新聞に入社。大正4年(1915年)に大須賀乙字とともに俳誌「石楠」を創刊して、俳壇に登場しています。その後は仕事を辞めて句作に集中することになります。彼は恩師である高浜虚子の「ホトトギス」とも一線を画し、河東碧梧桐らによる新傾向俳句を真っ向から批判して、俳句界においては中道右派とでも言えそうな立ち位置にあったようです。松尾芭蕉以来の「自然感ある民族詩」としての俳句を目指したと経歴には記されています。亜浪自身が著した文章「俳句に甦りて」の中では、まず五七五調が「俳句創造の歴史に稽へても、国語の音律から云つても、確かに尊重すべき理義がある」とした上で、必ずしも5音、7音、5音の三段構造で詠まなければならないものではないし、胴切れや5音と12音合計17音のような詠み方も認容する「十七音詩」を標榜していたようです。また「石楠」を共に立ち上げた乙字とは乙字が提唱する二句一章の俳句論に同意できなかったことから袂を分かち、以後、「石楠」は亜浪の結社として活動を行うこととなりますが、その視点から亜浪の句を読むと、確かに彼の句は「一句一章」として詠まれており、技巧に走らず物事を正面から深く捉えるという姿勢が伺われます。  ここで臼田亜浪の詠んだ句を時節柄秋を中心に若干の冬の句も含めて引用させていただきます。

鷺みんな森にしづまり月しづる
家あひを人ぬけゆきし風の月
稲妻の風そくそくと夜の秋
汽車はしるレール秋日にのたうちつ
人込みに白き月見し十二月
木曾路ゆく我れも旅人散る木の葉
霧よ包め包めひとりは淋しきぞ
ふるさとは山路がかりに秋の暮
話声奪ふ風に野を行く天の川
雨来り鈴虫声をたたみあへず
旅の日のいつまで暑き彼岸花
氷挽く音こきこきと杉間かな
凧がつくりがつくりと夕凪げる水
鵯のそれきり鳴かず雪の暮

 大須賀乙字と「二句一章の俳句論」に同意できず袂を分けただけあって、二句一章の句はここにも、ここに選ばなかった句にも見当たりませんでした。もう一つ、亜浪の俳句作品における大きな特徴は「繰り返し」の表現です。引用した句には余り見当たりませんが、これは彼が芭蕉と共に慕った上島鬼貫の作風に通じるものであり、「繰り返し」「オノマトぺ」といった表現が彼の作品に独自の韻律を付与する結果となっているようです。特に副詞の繰り返しは、その副詞が形容する動詞を読者に想起させ、直接的に動詞で表現する以上の、琴線を揺さぶる効果を生み出しているように思われます。亜浪は「石楠」の創刊時における主張として「吾等は俳句を純正なる民族詩として、内的に新生活より生れ来る新生命を希求し、外的に自然の象徴たる季語と十七音の詩形とを肯定する。」というメッセージを掲げています。彼の澄み透った詩心の根源には人間以外の生物を含む、自然界のあらゆるもののなかに魂が宿っているという信仰にも似た思いが籠っているようだという人物評があります。それは彼が生まれ育った信州長野の風土に起因するのではないかと思えてなりません。そしてもう一つ、この俳人に私が親近感を覚える理由は、彼が記者から俳諧の世界に入って、主流派に与せず独自の道を歩いたという経歴と生き方にあります。時代は異なりますが何か冬男師の生きざまに似ているようで、「なるほど」と一人ごちている次第です。