俳句随想

髙尾秀四郎

第 90 回  奥の細道・北陸加賀を訪ねて

庭掃きて出ばや寺に散る柳   芭蕉

「奥の細道」は芭蕉の代表的な紀行文であり元禄二年(1689年)の春に江戸の千住を出て奥(東北地方)を巡り、帰り道では、新潟から北陸に赴き岐阜の大垣で終わる旅の記録です。その中で芭蕉と同行の曽良は連句を巻き、多くの句を詠みました。様々な人たちとの交流もあって、当時から330年以上を経た今でも、彼らが訪れた場所には、句碑や足跡が偲ばれる建造物、名所旧跡の足跡、書き残された書面などの展示等があって貴重な観光資源として地域を潤しています。

さて2023年の国民文化祭「連句の祭典」が、芭蕉や曽良が往還した加賀市で開催されました。芭蕉と曾良は現在の地名で言えば新潟県から北陸の富山県を経て石川県に入ります。石川県では金沢市、多田神社(小松市)、那谷寺(小松市)を訪れた後、加賀市に入り、山中温泉と全昌寺を訪れています。従って、国民文化祭での吟行会の行き先も主としてこの山中温泉と全昌寺でした。

そもそも奥の細道の旅は、①歌枕をたずねる②謡曲の関連地を見る③能因法師や西行法師の足跡をたずねる④源義経の古跡を見る─の四つが主な目的でした。その長い旅程を無事に乗り切るためには現地の方々の協力が欠かせません。そこで曽良がマネージャー役となり、芭蕉との二人三脚で、各地において「連句興行」を行いました。江戸で名を馳せた芭蕉が来訪するということで各訪問地では大いに歓迎されたでしょうし「連句興行」を行うことによって基本的に160余日間の衣食住が保証されたものと考えられます。しかし、連句作品はこの奥の細道の紀行文には収録されていません。「奥の細道」はあくまでも旅行記であり、詠まれた俳句も全て収録されてはいません。この奥の細道の旅で芭蕉は15巻の連句を巻いており、その内芭蕉が発句を詠んだものが10巻あります。その発句とした句の内の5句のみしか「奥の細道」に掲載されていないことからも、如何にこの旅行記が厳選された句や文章で綴られていたかが分かります。

この紀行文には曽良本、柿衛本、西本本等様々な版があり、その真贋が問われています。そんな論争が渦巻く中、1996年に至って芭蕉の自筆草稿本が発見されました。そこには夥しい推敲の跡があったようです。それらはこの紀行文が厳選された句や文章とするために芭蕉が如何に推敲を重ねたかの証とも言えます。しかし一方で、芭蕉にはそもそも書き癖があると共に、誤った記憶から誤字もあったようです。例えば「死」という字は「一」の下に「タ」を左に「ヒ」右に書きますが、芭蕉はこの内の「タ」を「ク」と書いていたようです。明らかな誤字です。自筆本から曽良が書き写したとされる曽良本は、このような誤字を誤字と認識し、正しく書き直されているため、誤字は見当たりません。そのため芭蕉の自筆草稿本が発見された時、鑑定した専門家は、芭蕉がこれまで犯してきた誤記がそのままあるかどうかに強い関心をもっていたようで、彼等は自筆草稿本の中に芭蕉の誤字や癖字を見つけて、この発見された草稿本が紛れもない本物であると確信したとのことです。

「奥の細道」は全体が32丁(丁は 書物のページを数える単位で、表裏の2ページ分を一丁と呼ぶようです。)で旅程は162日に及びその後半に北陸に入った後、山中温泉で芭蕉が曽良と別れた後からの日数が29日ですので約2割に相当します。しかし「奥の細道」の中での、その期間に関する記述の分量が16%に過ぎないことから、この旅の中で書記役を務めていた曽良と別れた後の記述の分量は、書記役が不在となったことからか明らかに減っていて、曽良との別れがこの紀行文の文章の量にまで影響を与えていたことが推察されます。

今回、国民文化祭の吟行会で山中温泉や大聖寺地区の全昌寺を巡りましたが、不安定な天候で、雨が降ったり止んだり、時に晴れ間が見えたりという変わりやすい天候の中、紅葉には少し早すぎた感はあったものの、334年前と同じ秋に、芭蕉と曽良が歩いた場所を歩くということから、心ざわめくものがあり様々な思いがこみ上げてきました。しかもこの場所は、芭蕉がそれまで133日を同行してきた曽良と別れた場所であり、全昌寺は一日遅れで別々に泊まった寺であったことから、これまでの奥の細道の旅の中でも孤独感と心細さが研ぎ澄まされた場所であろうと思うと、平凡な通りや寺、宿泊した僧房が切ない景色にさえ見えてきました。

前夜、山中温泉で分かれた曽良が「よもすがら秋風聞くや裏の山」と芭蕉との二人の旅から一人になった孤独感を詠んだこの同じ全昌寺の僧房に芭蕉もまた泊まり、曽良と同様に一人になった寂しさをこらえた夜が明け、もう福井へ向けて出立しなければなりません。禅宗の寺の仕来りで旅経つ前に庭掃除をすることになっているため、庭掃除でもしようと思うと共に、もしここに曽良がいれば「師匠私がやりますから。」等と言ってくれたであろうものを、一人となった今、これからは何もかも自分でやらなければならない一人旅の旅人になってしまったと芭蕉は思ったことでしょう。そんな思いを抱く芭蕉に寺の若い僧たちは著名な芭蕉先生が泊まっておられると、はしゃぎながら芭蕉に一句をねだります。その時に詠んだ句が、本稿の冒頭に掲げた句です。「一宿一飯のお礼に庭を掃いて先を急がねばならない。その寺の庭に柳の葉が散っている。」と詠んでいます。

奥の細道の旅で芭蕉に同行してきた曽良が所用で離ればなれになった山中温泉、その後曽良が先に行って泊まり、芭蕉が一日遅れで泊まった全昌寺を334年後の秋に訪れた今回の加賀への旅は、「この季節の中でこの地を歩いたのか」と思いを馳せる旅になりました。句作においては他に譲るとしても、こと連句に関しては誰にも負けないとして、「老骨が真髄」とまでに芭蕉に言わしめた「連句」の祭典をそこで開き、連句の実作を行うことができたことを嬉しくまた有難いとも思いました。この「連句の祭典」で私が担当した座では、思うところがありまして、私の「加賀の湯の翁の句碑へ秋時雨」を発句として故宇咲冬男先生が考案された「十八韻順候式雪月花」の形式で一巻を巻き上げましたことをご報告させていただきます。