俳句随想
髙尾秀四郎
第 84 回 祈りを詠む句
生きてあれば祈るほかなし涅槃の日 宇咲冬男
冒頭の句は冬男師が生家の寺を継がず新聞記者になりたての春に詠まれた句です。学費を出してくれた兄上に申し訳ないとの思いで胸が痛んだと添えられています。人は様々な場面で努力の果てに躓き挫折し、時に絶望します。そして自分の力が及ばないことを知り、それでも何とか願いが叶いますようにと祈ります。今回はそんな「祈り」を詠む句について書いてみようと思います。
さて、学生時代に地学の先生が語った「地球は人間のためにあるのではないのです。」という言葉は、地球とそこに住む人間との関係に関する今の私の基本的な考え方のベースになっています。宇宙、地球、その中の自然は人間のためにあるのではなく、地球の46億年の歴史の中のある期間(概ね500万年前から今日まで)に住まわせて貰っているに過ぎません。しかもその500万年の内、猿人、原人、旧人、新人と進化し、今の人間に近い「新人」になったのが4万年前で、文字を持つようになったのが5千年前です。この事実を認識すれば、地震、津波、風水害が人の意思や願いとは関係なく発生し多くの犠牲者が出るという現実が説明できます。そんな被害を防ぐには不断の努力と知見の蓄積、力を合わせた灌漑や治水を行わなければなりませんが、そんな努力を払ってもなお天災は起きます。だから人は祈るのだと思います。自らの力では如何ともしがたい事象に対して人は祈ります。人の力ではどうしようもない事象は風水害にとどまらず、国と国、現代の複雑化した人間関係もまた同様で、努力ではカバーできない争いや断絶、不信が存在します。そのようなもの、そのような事象を目の当たりにし、何とかしようと頑張った挙句にどうにもならない時、人は祈るのだと思います。
「祈る」という行為は、辞書には「神仏に願うこと」とか「心から願う、希望すること」などと記されていますが、もう少し具体的に言えば、自らの努力の範囲を超えていて、どうすることもできないような場合に願う行為と言えるようです。一年の行事を見てみるとこの「祈る」という行為に結びつくものが余りにも多いことに気づきます。一年の中に散らばる祭日のほぼ全ては特定の事象、例えば国民の幸せ、国体の維持、新しい季節の多幸、自然の保護、老齢者、勤労者の健康や安寧、文化の向上や功労者への感謝等、何らかの願いに通じるものばかりのように見受けられます。祭日以外の法事、宗教行事、地域の記念日等ほぼ全てと言って良い程、何らかの願いを込めた行事と言えそうです。そう考えると世の中はて祈りに満ち満ちているとも言えます。そして多分残念ながら、同量の憎悪や不信も渦巻いているのではないでしょうか。
一方、祈ることによって必ずしも叶う訳ではありませんが、祈ることによって叶うことはなくても何らかの効用があることが証明された事例は数え切れません。サンフランシスコの総合病院の心臓病集中治療患者400名に対して、祈り手により祈られるA群と祈られないB群に分けてその効果を測ったところ、A群の方が治癒効果があり薬を必要としない比率が高かったそうです。また、ライ麦や大豆の種子に対して祈りを捧げたものと祈りを捧げなかったものとに分けてその後の発育を調べたところ、祈りを捧げた方の生育が良かったという結果もあるそうです。人の力で叶えられないと思われることに対して叶うように祈ることは、必ずしも願いが叶わないとしても、何らかの効用はあるようです。
祈る場合には、祈る対象を必要とします。ある人は神様に、ある人は仏様に、またある人は大自然の太陽や空や海、大きな岩や木という場合もあるかと思います。そのような習俗から宗教が生まれ、教祖が生まれ、世界には実に多様な宗教が存在します。古いものやほんの最近生まれたものもあります。言い換えれば宗教は人の力や能力の無さや弱さの裏返しと言えなくもないようです。そして宗教は過去の歴史から、必ず金銭に絡みます。祈りたい人、救いを求める人たちに対して願いを叶えるために身代わりとなって祈ったり、教えを説くことに専念するためには、主催者側(宗教団体)としてはそうするための資金が要るからです。その要求に対して信者は仏教であればお布施、キリスト教であれば献金やミサお礼という名目でお金を拠出します。それがやがて法外な金額になったり常識外れな方法や頻度になることもあるようで、近年の新興宗教のトラブルはここから生まれていると思います。
余談になりますが、宗教法人は一般の法人と比べて営利性がないこと、国民の精神的な支えになるという役割を担っていると思われる故に税制面で優遇され様々な規制が緩和されています。そのために厳重な審査を経て宗教法人格を取得する手続きがあります。今この手続きに甘さがあったこと、宗教法人としての適格性を失った場合に、法人格を剥奪するという運用の不備が露呈しているようです。しかし政権与党の一角に宗教法人を代表する党が存在しており、このことでその厳正な規制と運用の力が鈍らないか危惧しています。
祈るという行為を詠みこんだ句は、自らがどうしたい、どうなりたいという句よりも、むしろ愛する人や守りたい人を思って祈る句であったり、自らが祈る句よりは祈りを捧げる人を客観写生で描き取った句が多いように思いました。以下、祈りを詠んだ句を拾ってみます。
金の芒はるかなる母の祷りをり 石田 波郷
黄落のそこより祈り湧くごとし 嶋田 麻紀
山鳩啼く祈りわれより母ながき 寺山 修司
燭はいま祈りの在り処秋の風 飯田 龍太
露けさよ祈りの指を唇に触れ 山口 誓子
ひとひらの雪となるまで祈りけり 照井 翠
冬青空メタセコイアは祈りの樹 佐藤きらら
冬の薔薇祈りはいつもひとのため 片山由美子
寒苦鳥祷り忘れし夜が傾ぐ 宇咲 冬男
初ミサの長き祈りの髪若き 富安 風生
祈りの手照らし流燈離れざる 植松 昌子
初弥撒や祈りの指を深く組み 半田 幸子
「祈る」ことは祈ったことが現実になるというよりも、祈る人の心に変化をもたらすことによって、祈った人の物ごとの捉え方、対応の仕方が変わたり、それが周りの人に影響を与えて、結果として祈りが通じるのではないかと思います。そして何より、墓参に行って亡くなった人たちと心の中でしばし会話をして祈り終えた後の清々しさは、いつも「来てよかった」と思わずにはいられません。
本稿の最後に21年前の冬に、窓から見える家々の灯に思いを寄せて詠んだ句をご紹介します。
冬の灯は絆の火とも祈りとも 秀四郎