俳句随想
髙尾秀四郎
第 83 回 坂を詠む句
昏れなんとして雁坂の霧氷光 冬男
この句は宇咲冬男師が昭和58年(1981年)の冬の奥秩父で詠まれた句です。先生の句の中から今回取り上げようと考えた「坂を詠む句」を探したのですが、今回もまた苦労をしました。実は令和4年8月のあした俳句道場の兼題「白粉花」の投句の中に「四の坂」を詠んだ田口晶子さんの句があり、ちょっと気になったので調べてみました。その坂は新宿区にあって、その界隈はかつて文士村であり、林芙美子も一時住んでいたようです。そこから想を起こして、今回は「坂を詠む句」というテーマで書かせていただくこととしました。
私事ですが、私の出生地は家族が疎開していた長崎市外の郡部であり、その後長崎市内に戻って思案橋のそばの家に引っ越したのが3歳の時と聞いています。幼い頃の記憶は、石の階段を上ったところに立つその家に続く階段を登り詰めて振り返ったところから始まっており、それ以前の記憶はありません。10歳で長崎を離れた後、高校2年の夏に7年ぶりに長崎の姉の家を訪れ、その坂道を歩いたことがありました。その時点で身長は177センチを超えていたこともあって、記憶の中の広くて高い石の階段は、切ないほどに狭く短いものでした。坂の多い長崎の町全体がこじんまりとしていて、この狭い町が当時の自分の世界であったのかと、懐かしさと時間の経過の大きさを感じたものでした。長じて現在の住居に住み始めたのは1990年2月からであり、もう32年もの長きに亘って住み続けています。この家に転居した理由は、当時勤務していた会社の本部を郊外に移転する計画が出て、小田急線の新百合ヶ丘駅の駅ビルにそのオフィスを置くこととし、当時住んでいた練馬から通うにはいささか遠かったため、本部長であった私は他の社員に範を示す意味も含めて真っ先に、急行で一つ先にある町田へ引っ越しをすることとしました。更にそこまで移るのであれば一戸建てにしようと考え、物件を探すこととしました。家内が60件程の物件をピックアップし、そこから机上で更に10数件に絞って、仕事の後や休日に見て回りました。その中の1つが今の家になります。家内は中央線の吉祥寺駅に近い武蔵野のフラットな住宅街に実家があったため、当然のことのようにフラットな立地の物件を主に探していたようです。しかしどうも私の反応が芳しくなく、そこで何か感じるものがあったようで、その後坂の上の方の物件も見せるようになりました。そうすると私も俄然乗ってきたとかで、それからは坂の上の方の物件を中心に勧めるようになったようです。自分でも気がついていなかったのですが、どうやら私は意識下で坂の上の家を希望していたようです。それはかつて暮らした長崎の町や住んでいた家と無関係ではなかったはずです。
坂の上の方に建つ我が家は道路脇に地下となる車庫があり、階段を上がって1階、更に2階、3階があって、3階を自分の書斎としており、そこから雑木林や住宅街を一望する眺めが大変気に入っています。しかし車に乗った後に忘れ物をしたような場合は悲惨な目に遭います。道路から階段を上がって1階の玄関から2階へ、更に3階へ上がって、忘れ物を手にした後、また2階から1階へと下り、更に階段を下って車に辿り着きます。バリアフリーならぬバリアいっぱいのバリアフルの家に他なりません。そのため足の衰えは多分少ないかとは思っています。
司馬遼太郎は明治という時代を、上り坂を見上げながら登りつめたような時代であると言いなしました。元首相の小泉純一郎氏は人生には上り坂と下り坂があるが、もう一つ「マサカ」という坂があると言っていました。高い地位から一気に落ちることを「坂を転げ落ちるように…」と表現します。坂は人生の諸相を表していて先人は人生に平坦な道ばかりはないと戒めています。
俳句においても、地上に生きる人間が自然の一部である大地の起伏を歩きながら、人生における変化を、目前の「坂」という具体的な地形に重ね、より具体的で卑近な例えや象徴として「坂」の句を詠んでいます。そのような意味で「坂」は、人生を詠む際の重要な例えの対象になっているように思います。俳人たちが、そんな人生を象徴する「坂」を様々に詠んだ句を見てみましょう。
妻の墓までの坂みち枇杷の花 大嶽青児
坂みちを廊下のごとく宿浴衣 鷹羽狩行
坂道となりてもつづく籾莚 波多野爽波
坂道の神輿傾きかがやける 山口青邨
坂道の夜店すぐ尽く十三夜 岡本眸
坂道は人をとどめず夕桜 片山由美子
初日さす坂道をまだ誰も来ず 角川春樹
城門を出て坂道や麻の月 日野草城
青竹運ぶ暁の坂道ゆりおこし 上田五千石
凍光の湯気坂道に童児消ゆ 飯田龍太
日が照れば登る坂道鯉幟 杉田久女
橙照る坂道喘ぐ妻癒えよ 金子兜太
振り返れば様々な起伏の坂を上ってきましたし、転げ落ちもしました。それでも近頃は目の前の起伏が以前よりも随分緩やかになったような気がしています。それは以前ほど社会との繋がりや利害が濃密ではなくなったからかと思っています。加えて自らの坂の受け止め方として、上りや下りとなる坂という起伏自体は、実は大したことがないのではないかと思い始めています。人生の坂は、生死という区分で言えば、上りであっても下りであっても「生」に属し、その中で感じる禍福とは重なるものの「生きている」という意味においては、上りでも下りでも同じであると言えるからです。むしろ上り坂では不安を、下り坂では安堵を感じるようになりました。今から14年前の年末に詠んだ次の句は、取り立てて書くこともなかった平凡なひと日に、「何も書き留めなかった空白の日にも相変わらず生きていた。」という感慨を詠んだ句ですが、人生100年時代の第4コーナーに差し掛かろうとしている今、現在が上りでも下りでも、むしろ生かされていることへの感謝の気持ちの方が大きいと思える句として、この句を受け止めるようになっています。
古日記空白の日も生きていし 秀四郎