俳句随想
髙尾秀四郎
第 82 回 伊予松山と俳句
行く我に残れる汝なれに秋二つ 子規
冒頭の句は第14回「青春の句」の章の本文の中で取り上げた正岡子規の句です。詠まれた場所は伊予松山。夏目漱石が松山中学の英語教師として松山に赴任した後、子規が東京に行く際に子規が詠んでいます。従って「行く我」は子規で、「残れる汝」が漱石になります。
この二人の交流があった松山に今年の4月末に行ってきました。私にとって初めての松山訪問でした。俳句や連句を趣味として30年以上が過ぎましたが、そんな私が俳諧のメッカ、現代俳句の源流となる「ホトトギス」が生まれた町である松山に、実は今まで一度も行っていなかったのです。「モグリ」などと批判されそうですが、間違いなく今回が初めてでした。訪問の目的は俵口連句大会への参加でした。俵口連句大会は宇咲冬男先生の師の宇田零雨先生が始められたイベントであり「俵口」という名称は、芭蕉の教えを弟子の服部土芳が書き記した「三冊子」の中の『生前をりをりの戯れに、「俳諧いまだ俵口をとかず」ともいひ出られし事度々なり。』から引用されています。俵口とはまだ最初の段階にとどまっていることを意味しています。従って俵口連句大会を言い換えるならば、「初心を持った人々の連句大会」または「初心を忘れない連句大会」という意味になろうかと思います。
松山という町は小高い山の上に松山城があり、そこから伊予の海が一望出来るように、海を抱いた町です。日本の他の都市同様に太平洋戦争の末期には米軍の空襲を受け、中心部はほぼ焼失しているため、古い建物などは余りありませんし、松山城も再建されたものです。しかし町割りはそのままで、様々な再興がなされ、落ち着いた街並みとなっています。歴史を紐解きますと、有名な道後温泉は聖徳太子が湯浴みをされたという言い伝えがあるように飛鳥時代からの温泉であり、瀬戸内海で名を馳せ、源義経を助けて壇ノ浦で平家を滅亡に導いた河野水軍の根城でもありました。歴史書によると、河野水軍の末裔が伊予の国の守護となり、やがて長宗我部氏が取って代わり、豊臣秀吉の四国攻めによって四国が秀吉の支配下になった後、江戸時代に入ってからは徳川の譜代の松平定行が松山城の城主となっています。譜代大名の居城があったこと及び自然の幸にも恵まれて、豊かで文化の香り高い地として発展します。徳川の譜代でありながら、明治維新でも運良く官軍と戦うことなく戦果を逃れています。そんな穏やかで文芸の盛んな地に正岡子規が登場することとなり、これを起点として実に多様な詩歌の大家が生まれることになります。子規と直接接した俳人には髙濱虚子、河東碧梧桐、松根東洋城等がいますし、その次の代には荻原井泉水、髙濱年尾、水原秋桜子、臼田亞浪、日野草城等がいます。その他俳人以外に親友の夏目漱石や短歌の大家も多数連なっていて、壮大な人脈図を形成しています。
ところで夏目漱石が松山に住んでいた期間は、松山中学の英語教師として赴任したものの勉学に熱心ではない生徒に愛想をつかして早早に職を辞したため、一年足らずに過ぎません。しかしその短い滞在にもかかわらず、漱石は松山と切り離せないシンボリックで重要な存在になっています。それは小説「坊っちゃん」の爆発的なヒットのせいのようです。何かが流行し、誰もがその何かを認知することを「一世を風靡する」という言葉で表現します。しかしこの「一世風靡」という言葉は現代においてはいささか色あせて聞こえるように思われます。何故ならば、この言葉が該当するような事象が現代では滅多に見られないからです。昔の話をすれば、例えば戦後の「りんごの歌」や「青い山脈」そのずっと後の「高校3年生」などはそれこそ一時期においては、町の市場のスピーカーから、ラジオから、はたまたテレビから流れない日はないような流行で、国民の誰もが鼻歌交じりで口ずさんでいました。今は趣味や趣向、視聴するメディアの多様化等によって、それぞれの狭い分野でのヒットはあっても「一世を風靡する」ことはほぼありません。しかし明治の終わり頃の「坊っちゃん」はそれこそ一世を風靡したようで、「松山」と「坊っちゃん」は共に全国で認知されることになり、多くの観光客を招くことにもつながります。その結果「坊っちゃん饅頭」が生まれ、道後駅前には「坊っちゃん」に出てくるキャラクターが顔を出して回るからくり時計まで設置されるに至っています。またその後に上梓された司馬遼太郎の「坂の上の雲」は子規と漱石の社会的認知を更に高め、同郷の秋山兄弟の名を一躍有名にしました。因みに松山で一番の繁華街である「大街道」(おおかいどう)という名の通りを挟んで東側は上級武士の住まい、西側は下級武士の住まいという町割りになっており、子規の家は東側、秋山兄弟の住まいは西側にあったようです。彼らを登場させる小説の中での彼らの言葉遣いや気の配り方が、この身分関係から来ているのかと思うと納得できる点が多々あります。
ここで松山ゆかりの俳人と彼らの句の中で松山に句碑として残っている句を並べてみます。
漱石が来て虚子が来て大三十日 正岡子規
見上ぐれば城屹として秋の空 夏目漱石
赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
遠山に日の当りたる枯野哉 高浜虚子
一度訪ひ二度訪ふ波やきりぎりす 中村草田男
月待つと赤松山をさまよいぬ 石田波郷
伊豫の山蜜柑の実る大斜面 山口誓子
きりぎしにすがれる萩の命はも 冨安風生
松山の町には路面電車が走っていて、どこか懐かしい雰囲気があり、気持ちが落ち着きます。言葉や文字を大切にしていることが随所にうかがえますし、話し言葉はご存知の通りゆったりとして俳諧味があります。そして思わず一句詠みたくもなります。この春に訪れ、また訪れたいと思わせる町松山の、秋となる日を思って一句、
道後の秋路面電車の終点に 秀四郎