俳句随想
髙尾秀四郎
第 77 回 数を詠みこむ句
風死せり千の僧房掘り出され 冬男
冒頭の句は本号の「珈琲待夢」に掲載された瀬戸内寂聴さんによる冬男先生の句集「乾坤」の感想文の中にも取り上げられている冬男先生の句です。「目路はるかひろがりつづけたナーランダの薄褐色の僧房の跡に立った時」に詠まれた句とのことです。その数は百や二百という数を遙かに超える数であったのでしょう。この「千」は丁度「千」ではなく何百という数を大きく超える多数を意味した「千」です。この一字でその数の多さが描写され圧倒されます。数にはそんな力があります。今回は、数を詠み込んだ句について述べようと思います。なお題名を「数を詠む句」とはせず「数を詠みこむ句」とした理由は、句の中に数値はあるものの、数値自体は主役にはならないからです。数値はあくまでも、多いとか少ないという形容詞的働きをする言葉と言えます。しかし、数値を出すことによって単に「多い」「少ない」という表現に比べ、俄然具体性が生まれ、リアリティーが出てきます。ここに数を詠み込むポイントがあると思っています。一方で数を詠み込んだ句には類想も多く、「百の段には百の鐙」のように百や千を重ねた「重ね句」としても作りやすく、語呂も良いので安易に似たパターンの句を作ることになりかねません。またいくら心象句、象徴句を希求するとは言え、10句の全てが心象句、象徴句では肩が凝ります。中には諧謔句があり叙景句も必要であるように、数字を詠みこむ句もまた数を含まない句とのバランスを考える必要があると思います。
さて数を詠みこむ場合、具体的な単数の他、冒頭の句のように、位取り単位で詠む場合があります。百、千、万、百万等です。ビジネスで使う数字や金額の表記では三桁毎に区切り、千、百万、十億、兆というように示されます。この位取り単位に関する昔話を一つ。
大学の寮生活の中で、数の大きさに関する話で盛り上がったことがありました。物知りの友人が「この世の中の最大の数値は「無むりょうたいすう量大数」という数値で、それは具体的にはどういう数かというと、地上に大きな石があって、その石のところに100年に一度天女が舞い降りてきて羽根でさらっとその石をひと掃けして帰る。その繰り返しの結果、その石がなくなるまでの日数が無量大数である。」と言うのです。何かの本で読んだ知識であったのでしょうが、それを聞いて、もはや人智の及ばない想像を絶する数であろうと思ったものでした。この無量大数は10の68乗と言われる数値であり、巨大ネット企業のgoogleの語源ともいわれるgoogolは10の100乗と言われています。さらに数の単位については仏教の華厳経に登場する仏教数詞で最大のものは「不ふ かせつふかせつてん可説不可説転」と言い、無量大数やgoogolを遙かに超える単位であるとか。もはや天文学的という言葉さえも霞むような大きさと言うほかはありません。そこでそのような途方も無い数値をイメージとして理解するために、これらの数に匹敵するような具体的な膨大な数値を探してみました。誰が調べたのかは分かりませんが、次のような数値があるようです。
●世界の海岸の砂粒の数の合計:10の23乗
●人体を構成する原子の数:10の27乗
●宇宙に存在する全ての基本粒子の個数:10の80乗
いずれにしても10の68乗などという数値は無限大のものや宇宙を念頭におかなければ思いつかない数であり、そのような発想や想像をした古いにしえびと人のスケールの大きさと深さを思わずにはいられません。
俳句にはそんな無限大に近い数値はあまり出てきません。せいぜい億単位程度かと思います。ここで数を詠みこんだ句を見てみましょう。
その前にクイズを一つ。
次の数値はなんと読むでしょうか?
三九八七十 三四八三三七三 十十三
正解は「咲く花と見しはさざ波遠とおとうみ江」です。数で書かれてはいますが言葉に直せば味わいのある一句になります。
では数を詠み込んだ句の幾つかを見てみましょう。
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
奈良七重七堂伽藍八重桜 松尾芭蕉
ゆらぎ見ゆ百の椿が三百に 高浜虚子
梅一輪一輪ほどの暖かさ 服部嵐雪
是これがまあつひの栖すみかか雪五尺 小林一茶
さみだれや大河を前に家二軒 与謝蕪村
みづうみに四五枚洗ふ障子かな 大峯あきら
ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに 森 澄雄
百畳の寺千畳の鰯雲 吉内 健
剥落の千体佛や煤払 清野暁子
三千ノ骸屹立桜吹雪 川崎展宏
数値は客観性があって比較や分析が可能であり、企業の決算書の数値を分析する手法としては「経営分析」があります。あたかも病気の原因を探り、その原因となる箇所を調べて適切な処置を行うようなものです。この経営分析の大家の本の中に「涙の分析」という説明があります。曰く、『涙を分析すると98%が水分で、タンパク質(アルブミンやグロブリン、リゾチームなど)、リン酸塩なども含有する。人が流した涙を分析すると、その構成と成分から、どうやらこの液体は「涙」らしいと分かる。しかし分析ではその涙が悲しくて流れたものか、悔しくて流れたものか、はたまた嬉しくてこみ上げた涙なのかは分からない。事実の追求は何故そのようなものが出てきたかまで追求しなければ意味をなさない。分析自体は本質を突き詰める一つの手段に過ぎない。』と、経営分析の徒に警鐘を鳴らしています。数を詠みこむ俳句にも同じようなことが言えるかと思います。その数値で何を訴えたいのかが分かる句を詠む必要があるようです。
年の区切りとなる大晦日にはいつも過去を振り返ります。長崎に生まれ10歳で家族と共に上京し、長じては仕事や旅行で国内のみならず、世界各地へ出かけもしました。転居の数も両手に余るほどに。さて、宇宙の年齢からみれば一瞬にも満たない来年という1年はどんな年になるのでしょうか。どんな出会いがあるのでしょうか。
年の夜や生まれてここへ何千里 秀四郎