俳句随想
髙尾秀四郎
第 73 回 寺田寅彦と俳句(1)
客観のコーヒー主観の新酒哉 寅彦
冒頭の句は物理学者であると共に俳句、連句をものし、芸術にも造詣が深く、様々な随筆を残した寺田寅彦の句です。俳諧の世界に集まる人たちは実に多彩であり、それは今に始まったことではありません。芭蕉が名古屋で巻いた歌仙「狂句こがらし」の巻の連衆は芭蕉の他、野水(やすい)、荷兮(かけい)、重五(じゅうご)、杜国(とこく)、正平(しょうへい)の5名であり、野水は呉服商で町役人、荷兮は医者、重五は米屋、正平は紀州和歌山の人で詳細不詳と、それぞれの生なりわい業 はバラエティーに富んでいました。むしろその多様性が出句の多様性を生み作品の質を高めると共に、参加者にとっては知らない世界を垣間見ることができるという効用があるのだと思います。そもそも句会や句座は「俳諧」が冠された時点以降、性別、職業、宗教、身分などを越えた世界となって全員を「さん」付けで呼び合うフラットな場として発展してきました。そして現代にも言えることですが、意外と文系の人のみならず医系や理系の人も多いように思います。その中でも物理学者で評論や随筆を著した寺田寅彦は頭ひとつ抜けている存在であったように思います。
寺田寅彦が残した言葉で有名なものに「天災は忘れた頃にやってくる」があります。東京の麹町で土佐藩の士族の家に生まれ、五高(熊本高等学校、現在の熊本大学)に進んで、五高の英語教師として東京から赴任していた夏目漱石と出会い、物理学と共に文学も学び、漱石に私淑して、彼が主宰する俳句結社紫溟吟社に入って俳句や連句もものした人物です。漱石の著した小説「三四郎」の登場人物・野々宮宗八のモデルとしても知られています。俳号は牛頓(ニュートン)。
寅彦の俳句は物理学者らしい視点から詠まれたユニークなものが多いのですが、俳句をいささか齧っている私の目からは、思わず手直しをしたくなるような句も散見されます。その意味で彼の俳句の師匠である漱石の句に比べると、かなりの差があるように感じました。
コロナ禍の中、自らの生活で変わった最大の事象はステイホームの時間が大幅に増えたことであると思います。在宅勤務が増え、様々な会合が無くなったことで、家で過ごす時間がかなり増えました。その時間の使い途の一つとしてアマゾン・プライムに入会し、月額五百円で映画見放題のサービスを利用し始めたことがあります。社会に出て以降、映画を見に出かけるということがほとんどなかったことがむしろ幸いし、提供されている作品のほぼ全てが今まで見たことのないものであったため、どれも目新しく、お陰でかなりの数の映画を見ることになりました。
この映画に関して寅彦は「映画芸術」という論稿を残しており、その中の映画と連句という項目の中で「あらゆる芸術のうちでその動的な構成法において最も映画に接近するものは俳諧連句であろうと思われる。」と述べています。寅彦の生没は1878年―1935年。和暦では明治十一年―昭和十年であり、映画は無声映画から、ようやく有声映画(トーキー)に移行し始めた頃に該当します。そのような映画の黎明期における映画であるにもかかわらず、物理学者の寅彦の目には、映画が極めて将来性を秘めた夢の芸術のように映ったようです。まだ映画が初期の頃であり、技術的にも未完成な要素の多かった時代に、何故寅彦が映画に最も近いものが俳諧連句であろうと思ったかについて、彼の主張をまとめて申し上げれば、概要次のようになろうかと思います。
寅彦はまず映画について「映画は芸術と科学との結婚によって生まれた麒麟児である。」と位置づけた上で、当時評判であったロシアの映画監督エイゼンシュテインのモンタージュ理論やカットバック手法により、映画がスクリーンという平面に映像を映し出すものであるにも関わらず、時間を戻したり、異なる地点のものを結びつけたり、見る人の目となってカメラを動かし、恰も観客が見たいものを見に行ったり異なる角度から見たりすることから、時間と空間を制御することの出来る芸術と考えたようです。それは森羅万象を映すと共に、様々な場面を、時空を越えて繋げ、繋げることによって、繋がれた場面とは異なったイメージを視聴者に与えることもできることから、「俳諧の連歌」即ち「連句」の「付け運び」「転じ」を映像として見せることが出来るものであり、俳諧連句と映画とに近似性がある、と述べています。
そして、映画という西欧で生まれ日本にも伝播したものの、その質において日本の映画が西欧のものに遠く及ばない状況であることについて忸怩たる思いを持つとともに、それと近似する俳諧連句という文芸を生み出した日本文化にこそ映画の原点があると言った上で、日本の映画界に奮起を促してもいます。
連句とエイゼンシュテインの映画との類似性については故宇咲冬男師も研究され、論文を残されていて、エイゼンシュテインは日本の文化である歌舞伎や短歌、俳諧からモンタージュ手法を思いつき映画に応用したと結論付けられています。
付け方または転じ方の手法として芭蕉の弟子で名古屋の俳人・各務支考がまとめた「七名八体」があります。この付け運びのどれもが、そのまま映画の場面展開にも応用できるもののように思われます。映画という20世紀に花開いた芸術に用いられた斬新な手法が、海外から日本に紹介され日本の映画人も大いに刺激されたように見えながら、実はそれは逆輸入であったということかも知れません。
では何故そのような斬新な場面展開を日本の文芸が考案したかというと、それは日本という国の特質や自然観、人生観に根付いていたと、寅彦は述べています。
このことは俳句同人誌「あした」が目指す「心象から象徴の高みへ」と極めて深い関係を持つのではないかと推察しています。それ故、この章を更にもう一回続け、俳句の象徴性のルーツや必然性について述べてみたいと思っています。
俳諧の海は渺々春岬 秀四郎