俳句随想

髙尾秀四郎

第 65 回  俳句の恋の句と連句の恋句について


  足駄はかせぬ雨のあけぼの    越人
  きぬぎぬやあまりか細くあてやかに   芭蕉

冒頭の付合いは芭蕉が貞享5年(1688年)9月中旬頃、江戸深川の芭蕉庵で巻いた歌仙の中の恋句です。芭蕉の没年が元禄7年(1694年)の初冬ですので、亡くなる6年前の歌仙になります。後朝(きぬぎぬ)の別れに際して、男性が女性のか細さ美しさ故に雨の中を帰ろうと履きかけた足駄(あしだ)を履くことができない、と越人の句に付けています。

今回は連句における恋句及びその連句の恋句と不可分な俳句の恋の句について一章を設けてみようと思います。

●「でもしか」恋句  
小学生の頃、学校の先生になりたいと思っていました。その思いから大学に入って教職課程も選択したのですが、求人難で就職先に困らない時代であったことから、当時教職に就くことは、「でもしか先生」という言葉が生まれていたように、何もやりたくない、「でも仕方ないから」先生にでもなる、という風潮がありました。そこで方向転換し、違う道の先生を目指すことにしたのですが、今の連句実作の場ではこの「でもしか」としか思えない恋句が溢れているように思えます。即ち「恋は分からない」「恋句は面倒」「詠まなければならないので詠む」、「とりあえず恋句とわかる程度の言葉の入った句を詠んでおく」というように、「仕方なく」詠む義務としか捉えられていない節が見られます。その結果、味わいのある恋句やリズムに乗った一巻の山場となり得る恋句には滅多にお目にかかれないというのが実情です。

●芭蕉が芸術の域まで引き上げた歌仙の中の恋句
 「俳諧の連歌」である連句は庶民の詩歌であるため、優雅な恋も世俗な恋も詠まれました。しかし芭蕉以前の俳諧の連歌において、貞門の恋句では恋句に用いるべき決まった言葉を使うことで恋句としており、情感を詠むというものではありませんでした。その後の談林調の恋句は故事や過去の文献の恋になぞらえた本歌取りの恋句や前句の言葉に重ねたり連想する擦り付けで本歌取りめいた展開をするものであり、前句全体を睨んだ情感を込めた付けや転じではありませんでした。このような付け方に対して蕉風の恋句は、冒頭に掲げた越人との付け合いのように、前句の意を汲んだ情感のある付けであり、それ以前の恋句とは一線を画していました。

●連句実作の場の実情  
上記のように芭蕉が心血を注いで昇華させた歌仙やその中の恋句の付けのお手本がありながら、現代の連句実作の場においては残念ながら「でもしか」恋句に満ち溢れているように思います。このところ各地の連句大会の選者を仰せつかる機会が増えて、応募作品を見させていただく度に、このことを痛感しております。

●俳句の恋の句及び連句の恋句の要件
どんな表現が含まれていれば恋の句または恋句になるかということについて、たとえば「懐妊」という言葉が出れば懐妊する原因となる行為が二人の間にあったことが分かります。また「妻」という言葉を出せば愛し合った末に結ばれたであろうことは分かります。では「懐妊」や「妻」という言葉が含まれた句は恋句になるのでしょうか?私の答は否です。否というよりも、それで良いのですかと問いただしたい思いがあります。実にもったいないと思います。美味しいと評判のステーキハウスに行って、サイドメニューの鳥の唐揚げを食べて帰ってくるようなもので、折角の機会でありながら、いかにももったいないと思うのです。

●付け味  
連句の要諦は「付けと転じ」と言われています。これは俳句にも言えると思っています。俳句の恋の句は俳句であるが故に季語を含める必要があります。俳句の場合は、この季語と恋の表現との付け合せが成否を決めると思っています。一方、連句の恋句はまさに前句への「付け」であり、恋の呼び出しという地ならしを受けてベタ付かない付けをします。その意味で俳句の恋の句も連句の恋句も共に「付け味」にこそその成否がかかっていると思っています。付けの旨さは連句で学ぶことができます。連句で付けを学ぶことで俳句がうまくなり、恋句の付けの妙を体得することで、俳句の恋の句も詠めるようになると思っています。余談になりますが、芭蕉は恋句の前の地ならしを必要としなかったようで、どんな前句にも変幻自在、融通無碍に恋句を付けていました。これは真似の出来ないことであり、彼をして天才と呼ばしめる所以でもあろうかと思います。

ネット企業のKPI(=Key Performance Indication=重要経営評価指標)の一つは「利用者から時間を奪うこと」であると言われています。グーグルは自らの提供する検索エンジンやアプリをどれだけの時間使ってくれるかが重要で、その時間に比例して、提供するサービスの中で彼らの収入源であるネット広告の時間が増加し、彼らの収益が上がるからです。ネットゲームの会社、マッチングアプリを提供する会社等、皆同様の思惑で利用者から時間を奪おうとしています。そしてその戦略や思惑は相当に成功を収めているようです。人々は電車の中、食事中、会話の途中、歩きながら、トイレの中でさえもスマホをいじっています。言い換えれば、ネット企業の思惑通り、多くの人々がその貴重な持ち時間を易々と渡している、奪われていると言えます。そんな有様を見ながら私は常々「スマホの中に人生の答はないぞ!」と心の中で呟いております。

現代に生きる私達は、実は本当に価値のあること、大切なことに時間を使わず、余りにも意味のないものに時間を費やしているのではないかと思います。そしてそんな時間があったなら、人の行動の観察や支援や声がけに回し、身の回りの人を慈しむべきと叫びたい思いがあります。そして願わくば俳句や連句のような文芸に力を注ぎ、連句の恋句についてもおざなりにしないで、もっと入り込み、皆が競って詠むような俳座にして、恋句の創作の創意工夫をしたい と思っております。