俳句随想

髙尾秀四郎

第 63 回  「季の問題」について


今回は、絶滅危惧種季語・春の章でご紹介した宇田久( 俳号・零雨)先生の著書「季の問題」を参照しながら季題について書かせていただきます。

この本は昭和十二年の発行ですから、随分昔という印象があります。しかし読み進んでゆくと意外なことや知らなかった季語の逸話が出てきて飽きることがありませんでした。それ故今回一回ではご紹介し切れない可能性があります。

この本の中では「季語」という言葉と共に「季題」という言葉が使われています。評論家で歌舞伎通、かつ俳句にも造詣の深かった戸板康二氏にも季節毎に自分の好きな季語とその体験談をまとめた「季題体験」という著書がありました。確かに俳句において「季語」は単なる「語」ではなく俳句の大きなテーマとなる言葉という意味では「季題」の方が適切な表現かも知れないと思っています。著書の中で宇田先生は「季題」と「季語」について、要約をすると次のように書かれています。

『「目には青葉山ほととぎす初松魚  素堂」という句には3つの季語が含まれているが、この中でこの句の季題は「初松魚」であり、「青葉」と「ほととぎす」は季語である。季語は発句( 俳句)で用いられて初めて季語や季題になる。一句の中に季語が2つ以上ある場合に季題になるのは切れ字などで強調されていて季感が持てる季語である。季題とはこれから一つの作品を作ろうという場合の与えられたテーマと考えるべきである。』

さて、季語が成立し発展してきた経緯については「絶滅危惧種季語・春」の章で次のように説明しました。『「日本という四季が明確で風光明媚な地において古代から自然との関係が重視されていました。つまりその後の万葉集、古今集や源氏物語などの詩歌・文学が成立する以前から存在していました。その後連歌において季語は明確化され、さらに「俳諧の連歌」即ち連句によってその数が増えました。』 季語数の増加は主な「季寄せ」の発刊の度に増加したことが次の表で分かります。

該当年 季語数 
寛永18年( 1641 年) 595
正保4年( 1647 年) 649
慶安元年( 1648 年) 1032
正徳3年( 1713 年) 1839
天明3年( 1783 年) 2767
享和3年( 1803 年) 2601
嘉永4年( 1851 年) 3424

この季語の増加の背景には俳諧が京阪中心から江戸を始めとした諸国に広がり、そこでの行事が取り入れられるようになったことや、文化の変遷で人事の季語が増加したことも関係があるようです。これは時代の変遷に伴う生活様式が変化し複雑化してゆくことと無関係ではないと思います。人事に次いで増加した季語は宗教に関連するものでした。新たに始められた祭りや偉人の忌日などが増えてゆきました。また、かつては、「鰯引く」「大根引」としなければ季語たりえなかったものが「鰯」「大根」で季語になるようにもなりました。動物や植物の季語の増加はこの理由によるものが多いようです。

上記の事象を季語の変化の外形的変化とすれば、もう一つ内面的な変化があります。芭蕉以前の貞門諸家の作品には次のようなものがあります。

侘びておれ七重のひざを八重桜

小桜をかどわかしゆくあらし哉

最初の句は上五、中七の表現から「七重八重」を言いたいばかりに八重桜にしたものであって八重桜を愛でるものではありません。二つ目の句も桜に「小」をつけたのは中七の「かどわかす」対象にするために「小」をつけたに過ぎません。これらは言葉遊びの域を出ておらず春の桜を愛でる句ではありません。これに対して芭蕉が率いる蕉門では、季語それ自体を諷詠するようになりました。季語そのものの真実性が極度に増したと言えますし季語というものを俳諧における特別な存在にしたと言えます。今では季語の役割や用法について当たり前のことのように思われることが芭蕉以前ではそうではなく、芭蕉が季語そのもの及びその用法を変えたと言えるようです。このことは「松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へと、師の詞ありしも私意をはなれよといふ事也。…」で始まる土芳が伝えた芭蕉の遺語に残されています。

さてここで季語を季題として用いる作句において、句会を念頭に、句と季語の関係を考えてみたいと思います。句会で事前に兼題を出す方法としては次の4つがあります。

①特定の季語を出す
②季語以外のキーワードを出す
③季語はその季節のものであれば何でも構わないとする「当季雑詠」やある季語に関連する全てを含めるとする、例えば「梅雨一切」のような一塊の季語を兼題とする
④兼題とは別に当日各自が目に触れたものから季語を選んで詠むものとする

あした俳句道場では過去①と③を併用した時期もありましたが、今は①の方法で定着しています。鴨台薔薇句会では①と②。また、吟行の場合には④による出句を促すことが多いと思います。

この4つの方法によって詠み方、取り組み方が変わります。
①の場合には、まず季語の意味、成立の背景や例句を参考にして詠みます。
②の場合にはキーワードで、季節に沿った言葉をまず決めた上で、その言葉に合った、寄り添える季語を選び、句に仕上げます。
③は広い選択肢から、今感じていること、目に触れるものに結びつけて季語を絞り込んだ上で、詠みたい題材に最適な季語を組み合わせます。
④の場合には、③に近いものの、より個人的な趣味にしたがって詠みたい事象や目に触れたものの中から季語をすくい上げて詠むことになります。

受験勉強のプロとでも言えそうな受験に習熟した受験生が合格後、学校でも社会に出ても、「問題は出されるもの」という前提でものを考える余り、そもそもどんなことが問題となるのか、何が常識から見ておかしいのかという視点や思考を持てず、指示待ち人間となり活躍できないことに似ていて、兼題から句を作ることばかりに長けることは作句という行動における偏った思考や対応に陥る危険性があるように思い始めています。そんなことから今後、句会の在り方をもう一度考えてみたいとも考えているこの頃ではあります。

季題とう言葉の宝夏暑し  秀四郎