俳句随想

髙尾秀四郎

第 61 回  絶滅危惧種季語・春


春のかたみの色鉛筆を買い足しぬ   夏井いつき

冒頭の句については後程触れさせていただくこととして、昨年の夏から始まった絶滅危惧種季語もようやく一巡し、最後の「春」に至りました。春はスタートの季節であり2月はまだまだ寒く、3月は不安定。4月になってようやく安定した春暖の気候となるも黄金週間に突入するところで終わって夏となります。今年は平成と言うまだ評価が完全には定まらない御代( みよ)が終わり、新天皇の下、新たな御代が始まる年でもあります。明治から昭和まで3代を生きた父母を尊敬していましたが、同じ三代を生きることになってしまいましたし、来年になれば人生で二度目の東京五輪も経験することになります。人生100年時代を「まさか」とか、「そうは言うものの」と思って遠くから眺めていましたが、もう誇張でも冗談でもなく現実のものとして身近に迫ってきています。70 代から90代をどう生きがいをもって楽しく過ごすかは、卑近で切実な問題になってきています。

ところで、宇咲冬男先生のご長男小久保泉氏から受け継いだ先生の蔵書の中に宇田久( 俳号・零雨)著の「季の問題」という本があります。昭和12年に三省堂から出版された本で、値段が1圓50銭と書かれています。この本が出版された昭和12年の公務員の初任給が75圓であったようで、現在の初任給の平均を23万円とするならば、実に3千倍です。この本の値段を3千倍すると約4、500円になります。当時の活字本の希少性を考えればそれなりの価格であったと言えなくもないように思います。

序文にはこの本がこれまで発表した論文の中から季語に関して著述したものを集めたものであること、編集者の意図から啓蒙的なものが多く収録されていること等が記されています。そして全体の約半分は難解な季語に関する解説に充てられています。「季の発生」と題した冒頭の論考では、季というものが日本という四季が明確で風光明媚な地においてひときわ意識されたものであり、この国では古代から自然との関係を重視してきたこと、文字が出来て記録に残されるようになった後の古事記や万葉集の中でもそのことは明らかであること、古今集や源氏物語の平安時代、下がって連歌が興隆した鎌倉時代にはより明確に意識されるようになったこと、したがって連歌と同時期に季語が誕生したのではなく、日本では古代から季が意識され歌として詠まれてきたものが、連歌においてより明確に意識され使われるようになったと書かれています。季は我が国の最古の文学に遡ることが出来るし最古の文学のその前までその起源を遡ることができると書かれています。また連歌における季と俳諧における季には相違があって、季語を連歌から俳諧に引き継ぐ際に実際に即した再検討がなされたと書かれています。一例が「秋待つ」という季語です。連歌では秋、俳諧では秋を待つ時点に着目し、夏とされています。また俳諧では俗談平語の何を取り入れても良いという特質から季語自体が連歌の季語に比べて増加したとも書かれています。かつて「あした季寄せ」が完成した頃、「季寄せは連句のために編まれた」と冬男先生に教えていただいたことがありました。確かに連句が成立した頃に季寄せもその存在を確かなものにしたのだと思います。連歌が隆盛を極めた時代( 室町時代)にすでに成立していた季語は「俳諧の連歌」、すなわち今日の連句につながる「庶民の連歌」の発生と共にその数を大幅に増やし、今日の歳時記に至ったということのようです。歳時記の盛衰を考えてみると連歌の時代が勃興期、俳諧の連歌の時代が興隆期、江戸期に連句が普及した時期が充実期とするならば、その中の季語に絶滅危惧種季語が多数存在することは容易に想像できます。三省堂の「広辞苑」の編纂が国家事業ではないように、文化は国が統制し管理するのではなく民間の力ある団体が高い志をもって行うことの方が数倍良いように思いますし、庶民はそれを購入することで支持を表明し、その支持を受けて編纂の事業を継続するという姿が本来的で望ましいように思います。まして「歳時記、季寄せにおいておや」と思う次第です。この「季の問題」に関しては章を改めて書いてみようと思っています。

さて春の絶滅危惧種季語です。その中から今回も想像すらできない季語を選びました。

藍微塵( あいみじん)=「忘れな草」の別称

愛林日( あいりんび)=「緑の週間」の傍題

畔塗( あぜぬり)=「田打」をした後、崩れた畔を補修する作業

麝香連理草( じゃこうれんりそう)=スイトピーの別名

出代( でがわり)=江戸時代から昭和まで続いていた奉公の制度で奉公の期間が明けて使用人が入れ替わることをいう。

磯嘆き( いそなげき)=「海女」の傍題。海女が海中から顔を出した時につく息のこと。

オランダ雉隠( おらんだきじかくし)=「アスパラガス」の傍題

ぎぎ( ぎぎ)=「ごんずい」の傍題

告天子( こくてんし)=「ひばり」の傍題

シラネリア=「サイネリア」のこと。

水圏戯( すいけんぎ)=「石鹸玉」の傍題

一方、希少季語に含められてはおりますが遺したい季語は次の2つです。

「花衣」=桜襲( さくらがさね)の色目の衣。あるいは、花見に行くときの衣装。

「春のかたみ」=「行く春」の傍題。

花衣を残したいと言いながら、実際に花見に行くときに、花に負けない程の華やかな衣類を付ける人がどれほどいるのだろうかとは思います。むしろ普段着でも花の下で纏っている衣類までもが華やかに見えると解釈して良いように思います。いずれにしてもこの語感は優雅で夢があるので遺したいと思います。同様に「春のかたみ」も味わいのある季語です。むしろ本題の「行く春」の傍題に含めることを憚られるほどの季語ではないかと思っています。冒頭の夏井氏の句は彼女のラジオ番組の熱心なリスナーが送って来る色鉛筆で書かれた絵手紙のことを下敷きにされているとのことですが、クレヨンではなく色鉛筆であるところに春の淡々とした感覚が表現されていて季語を生かしていると思いました。