俳句随想
髙尾秀四郎
第 53 回 「後の月」について
遠ざかり行く下駄の音後の月 万太郎
冒頭の句は久保田万太郎の句です。洒脱な万太郎らしい句であると思います。季語は「後の月」。旧暦九月十三日の月のことで十じゅうさんや三夜とも名残の月とも呼ばれています。また、中秋の名月の十五夜月だけの片月見は良くないといって、かつては八月の十五夜とセットで月見をしていたのだとか。ちょっと肌寒くなってきた晩秋の夜の満月の少し前の月であり、月光は八月十五日の満月よりも冷たく澄んだ感じになります。「女おんなめいげつ名月」とか「姥うばづき月」とも言われ、中秋の名月の異称「芋名月」に対して「栗名月」や「豆名月」とも言われています。
年齢を重ねる毎に、中秋の名月よりも後の月の方に愛着を覚えるのはやはり後の月の方に一層「もののあわれ」の情を感じるからなのでしょうか。
世の中には私が一番、私が中心と思い、そのとおりに行動する人がいます。また世の中には日本一、世界一が幅を利かせ、大声で自慢げに叫ばれています。それは確かにご自慢でしょうが、言う方の人が思っているほど聞く方は関心をもっていないというのが現実かと思います。旅先でそんなお国自慢を聞くと、感心した素振りは見せながらも、「さはさりながら」と思ってしまいます。それでもやはり日本一、世界一は自慢の種になるのでしょうし、誇りをくすぐるに違いありません。最大与党であった党の女性議員の発言に「一番でなければいけないんですか?二番じゃ駄目なんですか?」という国会の諮問委員会での質問がありました。二番から一番になるために、それまでのコストの数倍がかかるのならば、そのコストは余りにも勿体なく費用対効果の観点から無駄ではないかという指摘であったかと思います。誇りや自慢という要素を取り除けば、至極ごもっともな話であると思います。
かつて、テレビでステレオ放送が始まった頃、テレビの番組表には、その放送がステレオか否かが表示されていました。そんなステレオ放送の中で毎週視聴していた番組に音楽家の団伊玖磨氏の「音楽の旅はるか」という番組がありました。世界を旅してその地の音楽を紹介する番組で、ある時中国の蘇州付近を旅する放送があり、その中で無錫という地にある「天下第ニ泉」が紹介されました。そのネーミングと発想に、当時の私は大変な衝撃を受けたことを覚えています。「天下第ニ泉」という打ち出しであれば、次のような効果が生まれます。①相当の高いレベルの泉質であることを誇示できる。②わが町の泉こそ第一泉と思っている人の誇りを傷つけない。③一歩譲っている姿勢への好感。④「じゃあ第一泉はどこなんだ」という新たな話題を呼び起こす力、等など、この戦略は実に実を取って名を捨てる極めて賢明な大人の姿勢であると思ったものです。
俳句に話を戻し、俳句はそもそも「俳諧の連歌」と言われた連歌から生まれました。「俳諧の」を付した点で内容を高尚で典雅なものではありませんと言い切っています。また、その後、山崎宗鑑は、「筑波集」(二条良基が南北朝時代に撰集した連歌集)に対して「犬筑波集」を編みます。この「犬」は「犬侍」の「犬」に他なりません。つまり一歩下がった、謙った、または自嘲的な意味を含む言葉であると思います。言い換えれば、一歩引いたところに俳句の原点があるとも言えそうです。この意味において、かつて俳句に対して浴びせられた「俳句第二芸術論」を逆手に取って「俳句天下第二芸術論」でもぶち上げてみてはどうかと思っています。
さて、「連歌」に対する「俳諧の連歌」、「筑波集」に対する「犬筑波集」、それと一脈通じる感のある「中秋の名月」に対する「後の月」を愛でる姿勢は一歩引いた大人の風情を漂わせてなかなか味わいがあるように思います。
その「後の月」を愛で、句や歌仙を巻く「後の月見句会」を我が家で開催したのは岳父、篠原弘脩が存命で、あしたの会を故あって辞められた方々との旧交を温めようという主旨からでした。その後、不定期ながら息長く続け、やがて岳父が亡くなった後、彼を偲ぶ会として開催した「後の月見句会」は平成24年(2012年)10月27日でした。メンバーは臼杵游児さん、渡部春水さん、そして常連の山元志津香さんが急用で急遽欠席となったために、ダメモトでお声掛けをしたにも拘らず、快くご参加にご同意いただいた松澤晴美さんと、川上綾子さん、それに友人の福井修巳さんが加わっての開催となりました。丁度、石原慎太郎氏が都知事の職を辞して国政に出馬するというニュースが流れていた頃です。当夜は雲一つない満月に近い月が西側に広がる林の上から顔を出し、ゆっくりと中天に上るまで、会場となった我が家の二階のリビングから「後の月」がずっと見えていました。持ち寄りの句や当夜の嘱目吟の句を集計し互選をして、游児さんに講評をいただいたりしました。話は冬男先生のこと、句会のこと、ちょっとした昔話等尽きることがなく深夜までご一緒しました。その間中、我が家の愛犬ヨモは晴美さんの傍を離れませんでした。この犬種は養護犬とも呼ばれ、その場で最も心に痛みを抱えている人や体の弱い人のところに行く傾向があり、何故晴美さんなのか分かりませんでしたが、その後のご病没につながる経過を考えると、そんな兆候をお持ちであったのかも知れません。後日、晴美さんからのお礼状には至福の時間を堪能しましたというお言葉と共に「ヨモちゃんによろしく」と付け加えてありました。当夜ご存命であった游児さんと晴美さんが鬼籍に入られ、晴美さんの傍を離れなかったヨモもまた本年の9月に亡くなりました。今頃彼岸にて、あの夜のように游児さん達と連句を巻く席の晴美さんの膝に乗って可愛がられていれば良いと思っております。「後の月」は彼の地でも見られるのでしょうか。
穂すすすきの風懐かしの人呼びぬ 秀四郎