俳句随想

髙尾秀四郎

第 50 回  過去を詠む句


若葉して御目の雫ぬぐはばや   芭蕉

冒頭の句は元禄元年(1688)芭蕉45才の「笈の小文」に掲載された一句です。場所は奈良の唐招提寺。前書きに「招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎ給ひ、御目のうち潮風吹き入りて、終に御目盲ひさせ給ふ尊像を拝して」とあります。900年以上も昔に来朝した唐の高僧を偲んでの一句です。

5年ほど前に「未来を詠む句」という章を設けて未来を詠む句を取り上げましたが、結果は散々で、やはり未来は詠みにくいというのがおおよその結論であったように記憶します。そこで今回は未来の対局にある過去を詠む句について考えてみたいと思います。

ここで再度冒頭の句に戻ると、芭蕉が当地を訪れた季節は初夏。若葉の季節です。まばゆく瑞々しい光を浴びた若葉の中の唐招提寺に祀られた鑑真像のお姿を拝して、そのお目から零れる涙を、この若葉で拭って差し上げたいと詠んでいます。鑑真が来日したのは754年2月4日(66歳)であり、6度目にしてようやく日本の土を踏むことができました。では何故芭蕉は鑑真像に対してここまでの尊崇の念をいだき、句までものしたのでしょうか?

この問いに答える前に、鑑真がなぜ招聘され、来日したかについて簡単に記すことにします。鑑真が来朝した頃の我が国は国策として仏教を信奉し、僧侶は納税の義務が免除されていたことから、重税に苦しむ庶民はどんどん僧侶になっていて、朝廷は税収の減少に頭を悩ませていたそうです。そこで当時の仏教の本場である唐で行われていた、新たに僧を志す者には、10人以上の僧の前で「律」(僧侶間のルール)を誓う儀式「授戒」を経て正式に僧として認められるという制度を日本に導入しようと画策します。しかし当時の日本にこの「授戒」を実践できる僧侶がいなかったことから、唐から「授戒」の出来る高僧を招聘すべく、興福寺の2名の僧侶に勅命を与え、高僧探しがスタートします。それから10年の歳月を経て二人は鑑真と出会い、さらに5度の渡航の失敗の末、6度目の渡航でようやくの日本の土を踏むことになります。朝廷は鑑真に大僧都の位を与え東大寺にて「授戒」を行わせますが、その後、鑑真は朝廷の僧侶減らしに利用されたことを知ります。思惑の異なる両者は袂を分かち、鑑真は大僧都を解任され東大寺からも追われます。時に鑑真71歳。そんな鑑真の境遇を知った心ある人が、彼に土地を寄進し鑑真の私寺となる「唐招提寺」が建立され、鑑真を慕う者が次々と寺にやって来ます。また鑑真は社会福祉施設・悲田院を設立し、飢えた人や身寄りのない老人、孤児を世話するなど、積極的に貧民の救済に取り組みます。そして享年75歳、来日して10年、唐招提寺創建から4年目の春に永眠します。そんな極め付きの艱難辛苦の末の来朝と日本における布教や慈善活動のあらましを芭蕉は知り尽くしていたに違いありません。それゆえこれ程までの尊崇の念を込めた句を詠んだのだと思います。芭蕉はこの句のように昔々の出来事や人物、それらが繰りひろげたドラマを描いた物語や詩歌を引用して本歌取りにした句を数多詠んでいます。少し、例を挙げてみます。

夏草や兵どもが夢の後

この句は唐の詩人、杜甫の「春望」にある「国破れて山河在り、城は春にして草木深し」に想を得たものと言われています。

此道や行人なしに秋の暮

この句もまた唐の寒山の「寒山詩」にある、「無人行此道」を踏まえた句と言われています。

滑稽で時に馬鹿々々しいとも思える漫画の作者達が哲学者も驚くほどの読書家で博識であることは有名なことです。難しいことを難しく書くことはそれほど無理のないことですが、難しいこと、曖昧模糊としたことをシンプルに、更には可笑しみにまで高めるには相当の表現力と知識ベースが必要です。「氷山の一角」とは不正や醜聞が発覚した際にしばしば用いられる常套句ですが、漫画という徒花に似た文芸作品の作者の表現の底辺に膨大な知識や見識があるというのは、さもありなんと思います。この意味において芭蕉は連句や発句の名人であると共に、底辺に膨大な知識を蓄えた人であったのだろうと思います。

芭蕉の発句や連句は、まさに氷山の一角に過ぎないのかと思います。そして冒頭の句も含め、古のことや本歌を引用しながらも、過去を過去としてではなく、今に引き戻して詠んでいるのは流石と言わざるをえません。

故人となられた上田五千石氏の言葉をお借りするならば「俳句は、われ・いま・ここの死生観である。」であり、「われ」「今」「ここ」を詠むことが、俳句という超のつく短詩形には相応しいのだと思います。草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」、冬男師の「掌に遠き記憶の独楽きしむ」など、間違いなく過去を詠みながらも 「われ」「今」「ここ」をしっかりと詠みあげているものと思います。

年を経ると過去の方が圧倒的に長くなります。しかも過去に戻るほど鮮明な記憶として残っています。そんな過去を捨てて未来を見ることができるはずもなく、かくして昔のことばかり話をし、過去の良かったこと、その反面としての今の悪いことしか言わない人になり、未来を考えない、先行きに希望を抱かなくなるのかと思います。その結果、作句においても過去をベースとした思考や発想に根ざしたものが多くなるのではないでしょうか。「過去を今に引き戻して詠む」ことによって過去が今に蘇り、新たな命が吹き込まれることになります。むしろ長く深い過去をもっている人ほど、豊かな発想や多様性をもった句が詠めるのだと思います。これは実にありがたくまた希望が持てます。冬男師はかつて「過去の吟行のことを何度詠んでも良い、磨きがかかるし、異なった視点でものを見ることができる。」と言われていました。それは心が漂泊する吟行の中にいた記憶、その中で感じたことを「今に引き戻して詠む」ことを前提に、「われ」「今」「ここ」を詠みなさいということであったのだと思っております。

聖五月青空に聴く師の言葉  秀四郎