俳句随想
髙尾秀四郎
第 41 回 俳句と忠臣蔵
年の瀬や水の流れと人の身は 其角
明日待たるるその宝船 子葉
冒頭の句は江戸の俳諧師で芭蕉の弟子の宝井其角の句であり、脇句は赤穂浪士の一人、大高源吾忠雄(俳号、湖月堂子葉)の句です。歳時記には忠臣蔵に関連して2つの季語があります。討ち入りの日の義 ぎ 士し会かいと大石内蔵助が切腹した日の大石忌です。冒頭の句は義士会の前日に詠まれたものです。
忠臣蔵に関する書物を初めて読んだのは父に薦められて読んだ岩波新書の「忠臣蔵」で、小学3年生の頃であったかと思います。夢中になって一気に読み終えたことを覚えています。日本人の誰もが本や芝居、映画等で見聞し、何度読んでも何度見ても心動かされるお話の一つになっています。12月に入ると必ずどこかでこの芝居や映画が上演され、こぞって見に行きます。
今回はこの忠臣蔵と俳句についてお話をしたいと思います。
昔、任侠映画が流行った頃、何故今、任侠モノが流行るのかという議論がありました。その一応の結論は「義理人情が廃れた世の中になったから」というものであったかと思います。人間も人の世も、無いものをねだるようです。
赤穂事件の発端となった殿中松の廊下の刃傷事件は元禄14年(1701)3月14日、討入りは翌年12月14日であり、元禄年間における事件です。そもそも元禄と言う時代は、関ヶ原の戦い(1600)から、88年が経過し、将軍も五代目の、生類憐みの令の綱吉の治世で、側用人の柳沢吉保の進めた文治政治の影響で教育が普及すると共に、出版も盛んとなり、浄瑠璃、歌舞伎が興隆した時代です。井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門という元禄の三文人が世に出た時代でもありました。一方米の生産量が増えて貨幣経済が発達し、町人文化が栄えると共に、ともすれば金が物言う拝金主義の時代でもあったようです。赤穂事件はそんな時代に起きました。金が物いう世の中を憂き世、浮き世と思っていた人たちから忠義を貫いた赤穂浪士達は喝采を浴びました。また江戸城の松の廊下の刃傷事件(1701年3月)から討ち入り、その後の切腹(1703年3月)までが2年間という短い期間に全ての出来事が完結したことも、その記憶を風化させることなく、今の世の事件としてその顛末が語られることになった要素になったかと思います。出版が発達した時代になっていたため瓦版、絵草子、浄瑠璃そしてやがては歌舞伎にまで取り上げられることになりました。
復本一郎氏の「俳句忠臣蔵」という著書では、忠臣蔵の義士の中には10を超える俳人がいたという考証をされています。主な4人の義士の本名と俳号を挙げてみます。
富森助右衛門正因 春帆(しゅんぱん)
大高源吾忠雄 子葉(しよう )
神崎与五郎則休 竹平(ちくへい)
萱野三平重実 涓泉(けんせん)
彼らの師は、冒頭の句の宝井其角ではなく、江戸の俳壇で其角と並び称される実力を持った水間沾徳(みずませんとく)とのこと。同書の中で取り上げられた江戸期の本「誠忠義臣略伝」の中には冒頭の句が次のように紹介されています。
年の尾や水の流れも人の身も 晋子
けふは竹うりあすたからぶね 子葉
晋子は其角のことであり、句自体が冒頭のものと異なっています。子葉(源吾)の脇句の句意は「今日は煤払いの竹を、明日は初夢の時に枕の下に敷く宝船の絵を売り歩いています。」というものです。また別の本では、この句を詠み合った場所が橋のたもとの居酒屋であったとするものもあります。100年に亘って義士の歴史を研究している中央義士会の調べによれば、40を超える項目において巷間で言われている義士に関する常識とされることが事実と異なっているようです。言い換えれば、それほどの相違を生むほど多くの人たちによって語り継がれたということかと思います。時代を室町時代に変えて赤穂事件を歌舞伎に仕立てた「仮名手本忠臣蔵」の大阪竹本座での初演が寛延元年(1747)ですので、事件から50年近く経った後になります。事件からほどなく編まれた。義士達への追悼句集「橋はし南みなみ」は、その率直な表現から、発禁本になっていたようです。その後も累々と語り継がれ新たな著作が生まれています。
戦後70年の今、先の戦争のことを語る時、その頃を物心ついた年齢で迎えた人が全人口の2割を切ったこの時点で、もしそのことを語ることが政府の方針に合わず、非合法や犯罪として扱われる環境であったとしたならば…。赤穂事件はそんな時代背景の中で綿々と受け継がれて来たと言えます。本を私家版にしたり、時代を変えたり、人物の名前を変えて、それでも追悼の意を表したいという当時の人々やその後の人たちのこの事件に対する思い入れの深さに驚くほかありません。義士俳人の追悼句集「橋南」から冒頭の3句のみを引用します。
君臣塩梅しれる人は誰。子葉、春帆、竹平、涓泉等他。
なきあとも猶なお塩梅の芽独活哉 沾徳
うぐいすに此芥子酢はなみだ哉 其角
枝葉迄なごりの霜のひかり哉 沾洲
3句目の沾洲は沾徳の子です。赤穂義士の俳人の中でも、子葉は玄人はだしの俳人であったようです。事件の2年ほど前から水間沾徳に師事し、当時流行った俳句紀行文に倣って紀行文を著し、沾徳選集の句集にはその名前が見受けられます。「橋南」にはまた、義士3名を含む6名で巻いた歌仙2巻が収められ、かれらが日常的に句を詠み、連句を巻き、良い句に出会えば三つ物をものしていたことが推測できます。義士たちが仇討を誓い合い、その機会を窺う日々の中で、季語や連句の付け合いに絡めて「それは季が合わない」とか「それではベタ付きだ」等の会話がなされていたかも知れません。そう思うと、愛すべき「忠臣蔵」がさらに身近なものとして受け止められそうです。
年の雪積れば思う赤穂義士 秀四郎