俳句随想
髙尾秀四郎
第 39 回 俳句と書について
身を焼くや白夜のパブの海賊酒 冬男
故宇咲冬男師からいただいた短冊や色紙が手許にあります。冒頭の句はその中の一つです。ドイツに薔薇の句碑を建立した後、北欧を旅した折に立ち寄ったパブで飲んだアクワビット(「命の水」の意味)の句です。これは短冊ではなく色紙に書かれているため右下には薔薇の花が描かれています。今回は時節柄及び思い出深い句として、この句を選びました。色紙や短冊に書かれた自筆の句は、筆遣いの巧拙を問いません。師と仰ぐ人の手によるものであること自体に価値があり、持ち続けたいと思います。「身を焼くや」の打ち出しは、お酒の弱かった先生にとって海賊の酒が相当に強烈であったであろうことを偲ばせて、微笑ましく、切なく、また懐かしくもあります。
ところで、私の作句の過程において「書く」というアクションは実質的にありません。まず頭に浮かんだ言葉を頭の中で反芻するというプロセスを経て文字としますが、文字としての書き出しは紙ではなく、携帯やスマホのメモ帳に打ち込みます。携帯電話のため漢字辞書が充実しておらず、漢字の語彙が豊かとは言えませんので、漢字変換の候補に出てこない漢字は一旦ひらがなのままとし、実際にまとめる際に漢字に変えます。こうしてPCに納められた句もそれで終わりとはなりません。一晩経つと同じ句が違って見えたり、ひどく陳腐なものに見えたりすることがしばしばあります。いずれにしても句を思い浮かべてから、あした誌に原稿として送るまで、手で文字を書くという行為はほぼありません。
この度上梓をさせていただきました拙句集「探梅」が我が家に届いた後、内100部程にサインをしてオープニングパーティに持ち込みました。パソコンが主な表現ツールとなっている今、万年筆で文字を書くという行為はすでに非日常の行為となっており、書いたら消せず、間違っても没にできないという状況下で文字を書くということに不思議な新鮮さを感じながらペンを走らせていました。そして文字を書くということが、気持ちを込め、自らの意思を伝える行為であることを、今更のように再認識した次第です。
一方、毛筆で文字を書く書道は中国から漢字、わが国で生まれた仮名を織り交ぜ、明治期に生まれた新書芸として現代詩文を書く流派があります。たまたま家内がこの流派に属する師についていたことが、今回の書作展「二人展」の開催に繋がりました。「私が詠んだ句を家内が書く」と言えば、直線的、時系列的な印象を持たれるかと思いますが、実際はそれほど単純ではありません。概ね次のようなステップが必要になります。
- 私が句を詠んで推敲し、雑誌やエッセイに掲載する
- 掲載されたもの(公に作品となった句)を一覧 にした上で、私の判断で数を絞る。
- その一覧から書家である家内が書に適した句 を選定する
- 選定した句について家内が私にその背景や思いを聞く。
- その結果を受けて家内が書くかどうかを決める
- 作成の途中の試作品について家内が意見を求め る
- 私のコメントに基づいて書き方や字体を変える (場合がある)
- 書の完成
- 書に合った表装の選定をする
- 表装を終えた時点で展覧会に出品する作品として完成
つまり、私が詠んだ句の中で公の作品とならなかった句は除外、公になった句の中でも家内に選ばれないものは除外、家内が私に確認する段階で、自分の描いていたイメージと異なる場合には除外、書く段階で仕上がりに満足できず、書作として完成しない句は除外、展示される句になるためには、理不尽と思えるほどのハードルがあります。こうして選ばれた書作になった句であっても、俳人としての観点からは、目で見ても声を出して読んでも腹落ちするという意味で、納得の行く句かどうかと問われれば、なかなか肯定はできかねます。そう考えれば、そもそも句とそれを書とした作品とは別物であると言う方が正直かも知れません。本随想の別の章で、名作を映画化したもので成功例はない、と書きました。同じことが句と書にも言えるかも知れません。
しかし、句を書にすることは、そのような問題点や、似て非なるものという批判を超えて、新たな魅力を付加し、新たな意味や力を表現するという意味で、やはり素晴らしいことであり、書によって表現する意義があると思っています。そのことを今回の書作展で知りました。その合作のパートナーが夫婦であれば、また新たな意味と価値や味わいを加えることになるかと思います。
オー・リングテスト(O-Ring Test)という人間の不可思議な力を「見える化」するテストがあります。2つの紙片に文字を書き、裏返して見えなくした上で、片方の手をその紙片の上に乗せます。その状態で空いた手で親指とひとさし指で輪(オーリング)を作り、思い切り力を込めて開かないようにします。これを別の人がその輪に指を入れて開こうとします。そうすると二つの紙片の片方の紙片に手を載せている方が、より強固に輪が結ばれていて、なかなか開かないことが分かります。そしてそのテストが終わって二つの紙片を表にすると、そこには例えば「憎悪」という文字と「愛」という文字が書かれているのです。ご想像の通り「愛」と書かれた紙に手を載せている方が輪はしっかりと閉じられて開けにくいのです。言い換えれば、手のひらは文字を読めて、その文字から力を得ていたということになります。文字は人にプラスとマイナスの力を与えるものであり、それは目でも手でも読めるという証明かと思います。文字が言霊であることは、どうやら確かなことのようです。
俳句は文字の組み合わせですが、ある意図をもって選ばれた文字は意味を持ち、力を持ち、人を動かすものであると思っています。そして良い句を手で書くというプロセスとその結果として生まれた書には、さらに力が加わるのではないかと、今回の書作展を通じて思いました。一方でそんな言霊を扱う嬉しさと共に怖さもあって、心して詠まねばならないとも思っております。
わが句書く妻一心に涼やかに 秀四郎