俳句随想
髙尾秀四郎
第 38 回 俳句の詠み手について
夏みかん酸つぱしいまさら純潔など しづ子
冒頭の句は戦後、伝説の女性俳人と呼ばれた鈴木しづ子の句です。この人の名前を初めて知ったのは、今から4年ほど前になります。外出して次のアポイントまで少し時間があり、近くの大規模書店に立ち寄って、何気なく俳句に関する本を眺めていた時でした。詩歌のコーナーに「しづ子」書名で、「娼婦と呼ばれた俳人を追って」という副題を持つ川村蘭太というノンフィクション作家が著した本がありました。冒頭の句はその本の帯に掲載されていたものです。
今回は俳句の鑑賞において、その句の作者が誰でどんな人かを問題にすべきか否かについて考えてみたいと思っています。ご存知のように芭蕉十哲の職業を見ると、武士、商人、医者、学者、大店の番頭、ホームレスに近い人等、様々であり、そのことは後世の人達こそ評論として取り上げてはいますが、芭蕉の文献の中では取り分けて述べられてはいません。つまり個人や個性が尊重されていたということかと思います。
さて、冒頭の句の鈴木しづ子の名前を再び活字で見たのは昨年9月の日経新聞日曜版にある「愛の顛末」というコーナーでした。以下、簡単に彼女のプロフィールをご紹介します。
大正8年(1919)東京生まれ。淑徳女学校を経て女子大を目指すも失敗し、製図の専門学校に入って、以後は設計補助の仕事に就き、戦中戦後も設計の仕事に携わります。一方で戦中から俳句誌「樹海」(主宰・松村巨湫)に入会し投句を始めています。戦後、20歳の頃、出版社がその句に着目し、処女句集「春雷」が上梓されました。しかし句集発刊から3ヵ月後、最愛の母が亡くなり、終戦後、その帰りを待っていた許婚者の戦死の報も受けることになります。このことで心に空白を持った彼女は職場の同僚から求婚を受けつつも年下の大学生とも交際す るという時期を経て、職場の同僚と結婚します。しかしこの結婚生活は1年足らずで終 わり、叔母の住む岐阜に転居。その叔母が再婚するのを機に独立して、米兵を相手とするダンスホールにダンサーとしての職を得ます。やがて、そのダンスホールで知り合い恋仲となった黒人兵ケリー・クラックと一緒に棲むことになります。軍曹の位にあった彼との生活には当時としては珍しい冷蔵庫まであったようで、嬉しかったのでしょうか、冷蔵庫を詠んだ句が数十句も残っています。ところが、この米兵は昭和26年(1951)朝鮮戦争で出征し、3ヵ月後には、麻薬患者として復員することになります。やがて彼は彼女を置いて帰国。しばらくすると彼の母親から彼の訃報が届くことになります。アメリカからの訃報が届く前後、「樹海」の主宰者、松村巨湫の元には、彼女から7300句を超える夥しい数の句が送られてきています。それらは「しづ子」という著作の巻末に掲載されており、心情の吐露というよりもむしろ呼吸する息とも思えるものです。そして昭和27年(1952)、しづ子33歳の年初、彼女が知らないところで第二句集「指輪」が企画され、句は添削されて発刊。3月に東京・神田で開かれた出版記念会への出席を最後に彼女は消息を絶つこととなります。
この川村氏の著作から、彼女の足跡をたどる句を中心に抽きます。
み仏の訓への日々や花は八重
夫ならぬひとによりそふ青嵐
その一つ春風強む騎手の貌
あさかぜや青田のなかの新工場
水中花の水かへてより事務はじめ
婚約や白萩の花咲きつづき
一つ土地棄ててきたりし帰り花
黒人と踊る手さきやさくら散る
朝鮮へ書く梅雨の降り激ちけり
吾が名呼はば洋上の霧うすらぐべし
霧の洋渡り渡りきし訃報手に
人の母の情けに涕きぬ梅雨燈下
煙草の灰ふんわり落とす蟻の上
死ぬるまでわが詩うたる牡丹かな
初めの句は戦中の軍国少女の頃のものです。2句目は許婚者を詠んだ句です。3句目、許婚者は競馬の騎手であったとのこと。4句目、5句目は工場勤務の頃のものです。6句目は求婚を受け婚約をしながらも二人の男性の狭間で悩んでいた頃の句です。7句目が母の死、父の再婚で居場所を無くし、岐阜の叔母の家に身を寄せた時の句。さらにその叔母も再婚し、自立しなければならない立場になってダンサーの道を選んだ後、ダンスホールでの出会いの句です。その相手は朝鮮戦争に行き、帰ってみれば麻薬中毒になっていました。やがて、彼は洋上の人となり母国へ帰国。その後、訃報が彼の母から届きます。最後の二句は俳句の師へ届けられた大量の句の中のもので、複雑な心情と詩歌への拘りが詠まれています。
時代は時として「時代の正義」を振りかざし、その正義に背くものを切り捨ててゆきます。ガリレオはキリスト教の教義に反旗を掲げた罪人に。海外に雄飛し見聞を広め以って国家の発展に資することを願った吉田松陰は国禁を犯した罪人として死罪となりました。今であれば当然のことのように思われている人種を超えた愛を育んだ鈴木しづ子は、娼婦というレッテルを貼られました。川村氏の著作を読むと、巡り来る運命の中で懸命に、自分に正直に生きようとする一方、俳句結社や出版者の思惑に翻弄され俳壇での好奇の目に晒されていた様が伺えます。今、彼女の句を読むと、何故これをもって批判や後ろ指をさされなければならなかったのかと思います。俳句は日本の四季に根付き、伝統文化を継承する役割も果たしてはいますが、この文芸が時代を超えて生き延びるものとするためには、流行を追いながらも、句の詠み手の生い立ち、職業、主義、主張を超え、時代の正義をも超越した「不易」を忘れない姿勢が必要であるように思えてなりません。
梅雨の句の多し「しづ子」の半生記 秀四郎