俳句随想

髙尾秀四郎

第 37 回  日本の春を詠む句

 

行く春を近江の人と惜しみける  芭蕉

冒頭の句は松尾芭蕉が元禄三年(一六九 〇年)三月に、四十七歳の時に詠んだ句です。琵琶湖にて近江の国の春の美しさを近江の人たちと過ごし、行く春を惜しんだ句です。この句の「近江の人」は平安時代に遡って近江において歌を詠んだ歌人達をも重ねていると記録には書かれています。芭蕉の惜春の句には、この他に「行く春や鳥啼き魚の目は泪」があり、より有名ですが、この句は惜春よりもむしろ「奥の細道」への旅の不安の方が大きいので、惜春の句としては、冒頭の句に軍配を上げたいと思います。

先に日本の各季節を詠むという表題で夏からスタートしましたので、めぐり巡って最後が春になりました。日本の春については花の章でも触れましたが、今回は春の中でも晩春に焦点を当てて述べようと思います。

日本の四季の各季節の終わりの表現において、冬や夏は「果て」たり「終わり」ます。雪や厳しい寒さの冬は待望する春の訪れを前にして、また酷暑の夏はほっと一息安堵する秋を前にして、「果て」たり「終わる」のです。しかし春と秋は「行く」(「逝く」)ようです。それはこの春に、この秋に、いましばし留まって欲しいという思いが込められているからではないかと思います。特に春は初春から仲春の寒暖の激しさも収まり、少し汗ばむような安定した陽気になって、その春を惜しむのだと思います。

かつて会計監査の現場にいた頃、当時日本における超高層ビルの嚆矢であった霞ヶ関ビルの最上階近くにオフィスのある外資系企業の監査で、早朝の会議のために訪れた時、そのオフィスの東側の窓から朝日の昇る東京湾を見たことがありました。その時思ったことは、東京が実は港町であるということでした。キラキラと輝く水面に出船入船が行きかっていて、普段は通勤でオフィスと家と飲み屋の間をぐるぐると巡っている身には、東京にこんな景が日々繰り広げられていることに極めて新鮮な驚きを感じたものでした。但し、やはり東京から卑近な港町は横浜であり、故郷を重ねもします。

私見ではありますが、季節と結びつく場所というものがあるように思います。梅雨の紫陽花の季節に鎌倉を訪れるのを常としているように、春、とりわけ花過ぎの季節にはその横浜に行かずにはいられません。それは幼い頃耳にし、そのメロディーと歌詞が記憶の中に刷り込まれた歌があるからです。

「港が見える丘」という歌は昭和二十二年に、平野愛子という歌手が歌って大ヒットした終戦直後の代表的な流行歌です。港が見える横浜の山手にはこの歌のタイトルを冠した公園もありますし、すぐそばには大佛次郎文学館、山手の洋館群と外人墓地もあり、その地は長崎の南山手を思わせます。 この歌の一番だけを書き出してみます。

あなたと二人で来た丘は
港が見える丘
色あせた桜ただ一つ
淋しく咲いていた
船の汽笛 むせび泣けば
チラリホラリと花びら
あなたと私にふりかかる
春の午後でした

発表された時代を思えば戦争に征き、帰らなかった恋人への歌かとも思われます。その気だるく物憂い歌声が駘蕩とした晩春にマッチして、私の中でこの歌は晩春と不可分のものとなっています。良い俳句が思わず物語を書きたくなるように、この歌からは幾つものドラマが思い浮かびます。そして「行く春」の切なさが音と風景として広がるのです。

今回はこのような晩春における惜春の句を拾ってみます。

散る桜残る桜も散る桜    良寛
ゆく春やおもたき琵琶の抱ごヽろ  与謝蕪村
ゆく春や四国へ渡る旅役者   吉井 勇
春惜しむ人にしきりに訪はれけり   夏目漱石
国ぢゆうの花流しゆく大河かな   長谷川櫂
一握の落花湯船に放ちけり   鈴木太郎
わが肌に触れざりし春過ぎゆくも   相馬遷子
詩に痩せて西安の花掌に   宇咲冬男

一句目に上げた句は良寛和尚の辞世の句であり、神風特攻隊員に愛唱された句ともいわれています。使命に燃えつつ惜しんでも惜しみきれない青春を重ねていたに違いありません。最後に掲げた冬男師の句は、中国の旅で西安の阿倍仲麻呂の記念碑のある、興慶宮公園の花を詠んだ句と記されています。今芭蕉も憧れた古都長安の地に立ち、自らもまた風狂の道を選んだことに思いを致した句とのことです。行く春は果たせなかった夢、道半ばの志に思いを馳せる季節かも知れません。

さて、日本は南北と東西に長い列島です。中央に位置する地域で晩春を迎える頃、北国はまだ早春でしかありません。それ故北国の春は、もう夏となっている中央に位置する地域に比べれば出遅れ感が著しいはずです。それだけに北国で迎える「行く春」はその喪失感が一層強いのではないかと思います。  今年、東北の被災地の方々は4回目の春を迎えます。その春が行く日、春を惜しむよりもむしろ早く過ぎて欲しいという思いの方が大きいのではないかと推測します。心の底から湧き上がるような北国の春が再び訪れ、「行く春」を心ゆくまで惜しむ日が来ることを願わずにはいられません。

往く春や形見の時計時刻み   秀四郎