俳句随想
髙尾秀四郎
第 35 回 日本の冬を詠む句
山里は冬ぞさびしさまさりける
人目も草もかれぬと思へば
冒頭の歌は百人一首の28番目となる源宗于朝臣(みなもとのむねゆきあそん)の一首です。「山里はいつの季節でも寂しいが、冬はとりわけ、尋ねてくれる人も途絶え、目を楽しませてくれる草花も枯れてしまう。」と歌っています。
冬は立冬の後に木枯らしが吹き、北国には初雪、その他の地域では時雨の季節となります。十二月になると「暮れ」という言葉に響きあうように日暮れが早まります。そして正月を迎え、太平洋側では冬晴れと呼ばれる晴天の日が続きます。また正月を迎える季節だけに悪霊を祓う火祭りや火焚きの行事が行なわれます。それゆえ日本の冬は年単位のカレンダーを一枚めくる季節とも言えます。
ところで、人は常に無いものをねだり、懐かしみます。喧騒の中では孤独を、孤独の淵では仲間を思います。冒頭の一首のように生きとし生けるもの皆が活発に活動する夏とは違う冬を寂しいと歎きますが、夏になるとまた「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいずこに月宿るらむ」と、「あなたと逢う夜が長ければ良いと思っているのに、夏の夜は余りにもあっけなく明けてしまう。」と夏を歎くのです。身勝手なものです。ここで身勝手をもう一つ。誰にとっても孫は手放しで可愛いものです。我が子と違って教育的指導をする義務がなく、ただただ可愛がることが許される存在だからです。しかしその孫もしばらくそばにいると、その疲れを知らない活発さにたじたじとなり、対応が負担にもなります。それ故次のような川柳が生まれてもきます。「来て嬉し 帰って嬉し お孫ちゃん」
今回はそんな身勝手な人間の冬を詠む俳句に焦点を当ててみようと思います。
まずは冬についての私見をしばし述べさせていただきます。取り上げた季節が冬だからという訳ではないのですが、私は夏よりもむしろ冬が好きです。その思いは年を経る毎に強くなってきているように思います。コートやマフラー等、身に付けるものが多く、おしゃれができること、日本特有の年末年始という一年を総括し、新たに始めるという区切りを持つ季節であること、遠からじと思える春を思う季節であること、そして行動パターンとして私自身がアウトドア派ではないことも大いに影響しているかと思います。冬にはインドアの遊戯がたくさんあります。冒頭の一首を含む百人一首は、今でこそ手にとることが少なくなったものの、かつてはこれで良く遊んだものでした。今でも忘れられないことの一つは、母が入った「かるた取り」では一度も勝てたことがないということです。上の句が半分も読まれていないタイミングで軽々と場の札を取る母は驚異であり脅威でもありました。
季節はまた、その季節に出会った人、別れた人とも結びついて、季節感や季節の記憶の一部を構成します。私にとって冬は、実の父の死と、私の俳諧の父である冬男師の死に向き合った季節でもありました。この二つの死は、私に「自立せよ」と告げるものでした。あの冬の日、私は人生を区切ることになるカレンダーを一枚、泣きながらめくったのだと思います。
冬はとどまる季節、インドアの季節であり、とどまって去りし人のこと、いまある人、これから出会う人のことを思う季節であると思います。そしてその思いが深く強いほど、春以降にその思いが弾けるのだと思うのです。そう考えると冬の過ごし方はなかなか大切なのかも知れません。従って冬の句には勢いインドアや、外に出ても立ち止まって思う句が多いように感じています。今回もまた、冬の句の中から私の趣味で好きな句を選びました。
眼鏡置くごとくに山の眠りけり 金子 敦
冬ざれのくちびるを吸う別れかな 日野草城
短日やにはかに落ちし波の音 久保田万太郎
冬の夜や海ねむらねば眠られず 鈴木真砂女
風冴えて魚の腹さく女の手 石橋秀野
北風に言葉うばはれ麦踏めり 加藤楸邨
筆とらず読まず机に霙きく 上村占魚
うしろより初雪降れり夜の町 前田普羅
冬山やどこまでのぼる郵便夫 渡辺水巴
我が骨のゆるぶ音する蒲団かな 松瀬青々
犬の眼と鋭さ同じ猟夫の眼 松村竹炉
文字の上意味の上をば冬の蠅 中村草田男
いくたび病みいくたび癒えき実千両 石田波郷
一つづつ食めば年逝くピーナッツ 森 澄雄
大寒の街に無数の拳ゆく 西東三鬼
本買へば表紙が匂ふ雪の暮 大野林火
冬男師の句には何故か冬の季語の句が多いことに、今回の句の抽出を通じて気付きました。その中から今回は、特に師が若かりし頃の冬の句を拾ってみました。
秩父行く二十歳の旅の息白く
吐く息の白し今日より事件記者
冬銀河寝顔のほかは子と逢へず
生々流転嵯峨野しぐれに遇ふことも
年つまる玻璃をぴしぴし星が打ち
冬は過ぎ去ろうとする一年を振り返り、新たな年を迎えて新たな再スタートを切る季節であり、来る春に思いを馳せる季節と書きましたが、一方で日常の雑事に追われるという現実もあります。しかし、本音を吐露し、日常の中で新たな発見をし、非日常の視点からものごとを捉えることのできるものが俳句であるとするならば、せめて句作においては、未来に向かって夢や希望や抱負を込めてみたいものです。そうすることで、その言の葉がまた新たな夢や希望を生み出すようにも思うのです。
春を待つ変わらぬ春と知りつつも 秀四郎