俳句随想

髙尾秀四郎

第 30 回  俳句と連句について(二)

 

霜月や鸛 (かう) の彳々(つくづく)ならびいて   荷 兮 (かけい)

冬の朝日のあはれなりけり  芭蕉

冒頭の二句は芭蕉七部集「冬の日」の中の「霜月の」の巻の発句と脇句であり、名古屋俳壇の荷兮の発句に芭蕉が脇を付けたものです。ここには言霊の戦いがありました。この歌仙は、芭蕉が名古屋に行って、江戸の桃青として迎えられた時のもの。当時、名古屋は俳諧では江戸よりも上と思っていました。「冬の日」の冒頭の歌仙が「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」であり、自分自身を木枯らしの中に来たと詠み、脇で野水が「たそやとばしるかさの山茶花」と、山茶花の花が零れた傘の人は誰でしょう、と付けています。そしてこの「霜月の」の巻では自分ではなく、名古屋の人に発句を付けさせました。付けたのは荷兮。医者で知識階級に属する人物であり、少し芭蕉に意地悪をしています。陰暦の十一月時雨の中、鶴ではなくそのへんの何の変哲もない鶴まがいの鳥が並んでいる中に翁を迎えたという主旨の発句です。しかも発句としてはタブーの「て」留めの句としています。発句は一句独立すべきところ、「て」という受け渡しの句を発句として芭蕉を試しています。しかし、芭蕉は少しも慌てず、脇で「冬の朝日のあはれなりけり」と、見事にお礼返しをした上で、脇にも関わらず切れ字を使っています。火花散る場面です。通常であれば「て」と「けり」で終わり、二句で冬を捨てるところを次に重五という人物に冬の句を所望し、「樫檜(かしわひのき)山家の体を木の葉降」と3句続けさせました。この息も付かせぬ付け合いの見事さに、その後名古屋俳壇の面々は芭蕉に私淑することになります。

こうして心血を注ぎ、俳諧を芸術の域まで高めた芭蕉も、明治期に至って、正岡子規により、連句は文学に非ず、と連句非文学論の矛先を向けられることとなります。そうして正岡子規が俳句を連句の発句から独立させ文学の一つであると宣言した俳句はまた、戦後に至ってフランス文学者の桑原武夫によって俳句第二芸術論の標的となります。今回は、連句と俳句に向けられた「連句非文学論」及び「俳句第二芸術論」に触れてみたいと思います。近頃はやりの「超」を拝借し、超要約版として、この二つの論議を私の独断と偏見で俯瞰してみます。まず正岡子規の連句非文学論ですが、「俳諧歌は二句唱和であり、前句と付句は相互に上半句と下半句が一体となって一つの句を形成する。これは個人の独創性とか創造性の世界とは違うので近代的な文学ではない。そのようなものは人間の感情から生まれるものではなく、知識から生まれるもの。従って感情を中核に置く近代文学においては芭蕉は文学人ではない。」とまで言い切っています。そして連句が文学ではないと言う反面「俳諧大要」において俳句は文学であると次のように述べています。「俳句は文学の一部なり。文学は美術(芸術の意味)の一部なり。故に美の標準、文学の標準なり。文学の標準は俳句の標準なり。即ち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も、皆同一の標準を以って論評し得べし。」と

一方戦後、フランス文学者桑原武夫による俳句第二芸術論は具体的な句の鑑賞からスタートしています。有名俳人の十句と無名俳人の五句を、名前を伏せてランダムに並べ、鑑賞に供し、どれがその有名俳人の句であるかを当てるという実証から、「わかりやすいということが芸術品の価値を決定するものでは、もとよりないが、作品を通して作者の経験が鑑賞者のうちに再生産されるというものでなければ芸術の意味はない…」として、有名俳人の句を完膚なきまでに批判しています。そして、この提言に対して、名指しされた有名俳人はもとより、俳句界の人々もさしたる反論をしなかったことが、今日までその禍根を引きずることにつながっています。私はこの二つの論議に対して、それが正しいかどうかを述べるつもりはありません。何故ならばこの論議が極めて時代的背景に根ざしていると思うからです。この二つの論議に共通することは、その時期の俳諧や俳句界の状況にあります。子規が論陣を張った明治期の俳諧は、俳諧の宗匠はその弟子の内の有力なものがその跡を継ぎ、宗匠は門弟に対して絶対的な権力を持つ封建的な組織にあって、芭蕉を神とあがめながらも、陋俗平凡の句を作っていたようです。そのため、その総本山である芭蕉に対して、知識人ではあるが、非文学者というレッテルを貼り、暗に当時の俳諧とその集団を批判したのでしょう。戦後の俳壇に対する桑原武夫の姿勢もこの正岡子規のものと大きくは違っていません。大家による家元俳句集団の結社誌の発行部数や会員数を喧伝し、もってその力を誇示したり、会員の評価が寄付や会務への貢献度などにより主宰の一存で決まるという俳句界のぬるま湯体質に対して冷水を浴びせたことに他ならなかったように思えます。

この二つの論議は、火山の噴火のように、当時の地質や地殻変動の状況から当然にして起こったものであると思います。歴史を紐解けば同じような事象が多々見受けられます。日本では平安期に余りにも唐様に染まっていた日本文化が、本家の唐が衰退をたどる頃にその反省として生まれたかな文字の文学、幕末の国学、海外では欧州で起こったルネッサンスやその後のリアリズム等がそれに当たるかと思います。どれも、本来の姿から大きく外れ、マンネリズムや退廃、荒廃を究めた頃に起きています。今回取り上げた二つの論議もその例外ではないと思うのです。しかし、一方で、その論議に多少の行き過ぎや誤りがあっても、それらは新たな流れとして、また強烈な刺激剤として、旧弊を壊し、新たな芽を芽吹かせる働きをすることを、歴史は教えているようです。

ダーウィンの進化論を持ち出すまでもなく、日々研鑽し、変わろうと努力しないものは滅びます。一方で今日、主宰者の句も添削の対象として切磋琢磨する句会や新たな式目や連句形式を進んで取り入れようとする連句会等が見受けられます。日本も、そして俳句や連句も、まだまだ捨てたものではないと心ひそかに思っている次第です。

年新た今変えなんとする未来  秀四郎