俳句随想
髙尾秀四郎
第 27 回 祭を詠む句
神田川祭の中を流れけり 万太郎
冒頭の句は小説家、戯曲家で俳人でもあった久保田万太郎の句です。久保田万太郎は東京・浅草の生まれで、生粋の江戸っ子であり、滅び行く江戸情緒をこよなく愛し、それを描いた文人です。彼が詠んだ祭の句には、例えば「お屋敷の塀のはづれの祭かな」「提灯のともりそめたる祭かな」など様々ありますが、この冒頭の句は出色の名句であり、祭の句の中で私の一番好きな句です。この句はまた不易流行の句でもあります。生老病死の宿命の中で生きる人々が営む祭で賑わう町の中を神田川がゆったりと時の流れのように流れているというただそれだけの表現で、有限の命をもった人間の生きる証のような神田祭と時の流れのような神田川という変わらぬものの対比をさらりと詠んでいるこの句は、やはり一級品と思います。いつぞやの随想の中で、代表句となる句を詠みたいと書きましたが、いつかきっと、こんな句を詠みたいと思わせる名句であると思います。
「祭」は夏の季語であり、東京では五月に神田祭、三社祭があり、京都では葵祭が開かれます。また立秋を過ぎると秋祭りが各地で開催され、農事における豊作を祝う一方、3・11の大震災の後は東北で開催される六魂祭のように、鎮魂の祭もあります。このようなさまざまな祭に対して、さまざまな視点から句が詠まれています。また、神田と言えば神田明神、そして神田祭です。かつてコンサルティングで関与した未上場ながら千人規模の老舗企業の会長が亡くなった葬儀に招かれ、その偲ぶ会に印半纏をまとった人々が木遣りを歌う場面に遭遇しました。会長は神田祭の熱心な後援者であったらしく、その人となりを慕って、木遣りで棺を送り出す申し出があり、これを受けたとのこと。生前に火消の頭と話し合っていたのかも知れません。万太郎が生まれた浅草、そして神田祭の神田、山の手のお屋敷町であった麹町について、次のような戯言が残っています。「粋な浅草、いなせな神田、意地の悪いは麹町」浅草が粋で、神田がいなせなのは良いとしても、意地悪にされた麹町はとんだはた迷惑でしょうが、江戸時代にさかのぼれば、浅草や神田という町人の町に対して、将軍の周りを固めた旗本の中の旗本と言われた番士の住む番町を含む麹町は武士の町の象徴的な場所であっただけに、この言いぶりは、町方の人々の憧れの裏返しであったかも知れません。その町人の自慢の種の一つが祭であったのだと思います。
冒頭の万太郎の句の対比は変わらぬものに神田川を据え、変わり行くものを、それを営む人に焦点を当てて祭の句にしていますが、次の句は、この祭の方を変わらぬものに据えていて、また一味違った味わいの句に仕上がっています。
昨年よりも老いて祭の中通る 能村登四郎
毎年執り行われる祭の賑わいの中を歩く自分を去年の自分と比べています。そして足取りなど「少し年老いたか」と思う事で、祭に対する愛惜、限りある命の自分が描き出されています。句作では、このような対比により、詠む対象を一層際立たせるという手法が有効であるように思います。
この祭の句に関して、少し視点を変えるため、藤田湘子氏のエッセイ「男の俳句、女の俳句」を引用させていただきます。氏によれば、そもそも戦前の俳句界は圧倒的に男性が多く、女性の俳人は例外的な存在であったとのこと。しかし戦後、特に昭和五十年代を境に女流俳人が多くなったと書かれています。氏はそんな男性でむんむんするような句会で育ったために、「切れ字」「省略」「リズム」を重んじた男ぶりの俳句に心酔し、自らも実践してきたが、今この意味での男ぶりの俳句が影を潜めているように思うと書かれています。一方で戦後、4Tと呼ばれた中村汀女、星野立子、橋本多佳子、三橋鷹女らが、誰におもねることのない毅然とした句を詠み、その後も続々と有力な女流俳人が生まれた戦後の状況を見て、もはや戦前に男女の区別をするために言われたとしか思えない「女性らしい繊細な感性」「女性らしいやわらかな表現」などという形容が、むしろセクハラに等しい愚行に過ぎないと断じておられます。一方で、暉峻康隆先生の季語辞典の「祭」の項には冒頭の久保田万太郎の句と並べて、女の祭の俳句が紹介されています。作者は4Tの一角、橋本多佳子です。
祭笛吹くとき男よかりけり 多佳子
この句に対して、暉峻先生は「万太郎の巨視的な把握に対して、多佳子はミクロ的な女性の目で、欲得を離れて一途に吹く男の表情をとらえた。」と評されています。昇華された名句になればなるほど、男女の差はなくなるように思いますが、一方で女性にしか詠めない句、男性だからこそ詠める句というのもまたあるように思います。
歌の歌詞には時として「やられた!」と思わせるもの、思わず膝を打つもの、ニヤリとしてしまうもの等、人生を知り尽くしたような言葉を見うけます。かつて流行った時代劇の連続TVドラマの主題歌の一節に、こんなフレーズがありました「男は辛いし、女も辛い、男と女はなお辛い…」 様々な季語、とりわけ「祭」という季語で、男と女の「なお辛い」思いを句にしてみたいものです
さて、冬男師の句の中にも祭の句があります。海外での祭の句に加えて、生まれ故郷の祭の句が多く残っています。
熊谷のうちわ祭を詠んだ句
雨の中へ祭の足袋を白く着(は)く
そして秩父夜祭の句
海恋ひの詩(うた)かや秩父冬祭
「人は祭のために生きる」と言った人がいました。リオのカーニバルでは貧しい人々がその日のためだけに一年を働くと言われています。実際、祭の笛や太鼓の音を聞くと血が騒ぎます。そしてその瞬間を永遠の記憶として切り取るものが祭の俳句ではないかと思うのです。
深川祭水が滾らす男の血 秀四郎