俳句随想
髙尾秀四郎
第24回 吟行で詠む句
春待ちの七福巡り七人で 秀四郎
冒頭の句はもう十五年ほど前、平成十年一月の松が取れた頃に、あしたの会の有志に冬男先生を含めて七人で出かけた新宿七福神巡りの吟行句会での拙句です。新宿と言えば歌舞伎町を中心とした繁華街か西口の高層ビル街しか思い当たりませんが、この吟行では、そんなところとはおよそ結びつかない裏路地や住宅街を巡り、言われなければ気が付かないような小さな祠の七福神を尋ねました。この吟行会で冬男先生に教えていただいた季語がありました。前日にまとまった雪が降ったため、木が雪に埋もれて、その雪の重さで途中から折れていました。それを見つめる私に、先生がこのような景には「雪折れ」という季語が使えると教えてくださいました。机上の季寄せだけで学んだ季語と、体験した季語の間には天地ほどの差が生まれます。それだけに吟行に出かける、旅行先で確かめる、という足を使って学んだ季語をいかに増やすかは、俳人にとって作句力の涵養に大きな影響を与えるのではないかと思います。
今回は吟行で詠む句についてお話をしたいと思います。本「俳句随想」第9回の「旅の句」の章では旅で句を詠む際の心得を四つほど挙げました。前回の旅の句の章が理論とすれば、今回は実践であり応用ということになろうかと思います。
まずは吟行で詠む句と関連のある「心と体」の話をします。心と体は一体でありながら、その動きは反比例するとつくづく思います。体を動かさない状況では心が揺れ、体を動かすと心が鎮まると思うからです。目覚めてあれこれ思う場面では思い切り悲観的であるのに、起き上がってバタバタと動き出すと、何と馬鹿げたことを思っていたのかと思うほど晴れやかになり、何でもできるような爽快な気分になります。また夏に庭に出て一心に草をむしるような単純作業をしていると、心が落ち着き、幸せさえ感じることがあります。「案ずるより産むが易し」「やってみなはれ」等の諺、箴言は、そんな人間の本質を表しているように思います。俳句もまた動くと感じるものが増えて、句も生まれるという法則が成り立ちそうです。その意味で吟行や、俳句も詠むつもりで出た旅行や出張では必ず良い句が生まれます。青年よ「書を捨てよ、町へ出よう」という評論集を出し、後に「天井桟敷」というアングラ劇団に発展した寺山修司の「青年よ書を捨てて町に出よう、そうすれば何かが変わる、何かが見つかる」という主張にもつながることのように思います。書を捨てないまでも、まずは自らの芸術の昇華のために旅に出たのが芭蕉であるとするならば、やはり俳句には外に出ること、今と違った環境に自らを置くことが大切なようです。それゆえ吟行は俳句を作る上で絶好の機会になるのではないでしょうか。そして吟行も含め、人間の行動、極端に言えば、人と人の接触から生まれる出来事にはなべて起承転結があると思います。ある出来事の起承転結、一日の、一年の、そして人生にも起承転結があります。「人生は旅である」と「旅は人生である」とは上記のことを言っているのではないかと思います。
さて、平成二十四年九月二十三日、二十四
日の両日、俳句同人誌あしたの一泊吟行旅行
の行き先は福島県の会津地方でした。この一
泊吟行を題材に吟行で詠む句について述べた
いと思います。この旅で詠んだ句の中から幾
つかを時系列に並べてみます。
平成二十四年九月二十三日
(大宮駅を発つ)
彩の町発つ身に縋る秋黴雨
(一路会津へ)
稲の黄はしあわせの色奥の道
(会津地方に入る)
雨空の白さ映せり蕎麦の花
秋驟雨新島八重の生れし地も
(慧日寺跡)
秋梅雨入り栃葺きの堂悄然と
祷りの山の磐梯の裾初紅葉
(会津藩公祭り)
会津祭新選組も官軍も
会津祭雨中に落ちゆく先はどこ
平成二十四年九月二十四日
(御薬園)
秋黴雨茶室に戊辰の刀傷
(飯盛山と剣舞)
秋愁の会津に戊辰の悲話ありき
初紅葉剣士の舞へ降る涙雨
(大内宿)
大内宿へ色なき風と降りにけり
コスモスに誘われて来し宿場町
(帰路)
会津去る林道の果て秋の虹
帰京の途秋夕月に見送られ
手を振れば旅の終わりの夜の冷え
今回の一泊吟行旅行にもまた起承転結がありました。起:起は予想だにしなかった土砂降りの雨。この先どうなることやらと誰もが思ったスタートでした。承…承は会津の風物との遭遇です。ホテルに到着後の宴会には、地元で連句の振興に尽力されている田中雅子さんの突然の来訪もあり、楽しいひと時を過ごしました。翌日の白虎隊の墓所へのお参りや、小糠雨降る中での剣舞、御薬園と、ガイド顔負けの渡部春水さんの解説を伺いながら会津を堪能しました。転…私にとっての「転」は会津に残された悲話でした。会津若松・鶴ヶ城陥落の時に多くの会津藩士が討ち死にをしましたが、その遺体は埋葬を許されなかったそうです。その結果がどのようなものであったかは想像に難くありません。これが交渉の上手い関西人であれば、言葉巧みに懐柔し、どうにか埋葬にこぎ着けたはずですが、会津士魂を持つ人々は、自らが敗者であることを受入れ、潔く勝者の指示に従い、決して反論をしなかったのでしょう。それから百四十年程経った昨年、長州と会津の仲直りの場が設けられたそうですが、やはり百四十年はなお、その恨みを流すには短かったようです。結…会津の人々はその後、苦難を乗り越え、シンボルの城を再建し、文化溢るる町を蘇らせて我々を迎えてくれました。その地で現地でしか伺えない悲話を聞きながらも、その再興になった町の佇まいと人々に接し、ある種の安堵を抱いて会津を去ることができたと思っています。
本章の終わりに、冒頭ご紹介した新宿七福神巡りで詠んだ雪折れの句をご紹介します。雪折れという痛ましい景に弁財天の慈顔を、連句で言う「向付」にした句です。会津の悲話を聞いた後に落ち着いた街並みや秋の虹と夕月に送られて戻った会津への旅に重なるものがあるように思いました。
雪折れへ抜弁天の慈顔かな 秀四郎