俳句随想

髙尾秀四郎

第13回 花の句

さまざまなこと思い出す桜かな 芭蕉

 この句は、松尾芭蕉によって元禄元年 (一六八八年)、奥の細道の旅に出る一年前、故郷である伊賀の国へ帰省した際に詠まれています。時に芭蕉、四五歳。その昔、芭蕉が仕えていた籐堂良忠が主催した 花見の宴の時の芭蕉(宗房)の将来は、花見の花のように満開に花開いていたことでしょう。しかしその花見の宴の後、主君は二五歳の若さで急逝します。芭蕉は主君の野辺送りの後、二三歳で侍の道を捨てて俳 諧の道に生きる決心をします。そしてそれから二二年後、父の三十三回忌の追善法要 もあって、丁度桜の咲く頃に故郷に戻ります。芭蕉の実家から籐堂家の屋敷までは一 町(一〇九メートル)ほどの距離です。そ して芭蕉は図らずも籐堂家の世継、良長か ら、屋敷で開く花見の宴に招かれます。江 戸において俳諧で名を上げたとは言っても 脱藩の罪を負った芭蕉にとって、二度と訪れることはないと思っていた旧主の屋敷で 開かれる花見の宴への招待です。芭蕉には 夢のような出来事であったはずです。この句は、ああも詠もう、こうも詠もうと思った末に生まれた、極めて平易で私心のない、 透明な句のように思います。芭蕉が詠んだ 「さまざま」にはそんな万感が込められて いるのでしょう。花の句で最も共鳴できる句です。

今回は雪月花の、すでに取りあげた「月」 「雪」の後を受けて、真打の「花」を取り 上げます。俳句で花と言えば桜を指します。 そして桜は、春に里にやってくる稲(サ) の神が憑依する座(クラ)だからサクラで あるという説や、富士の頂から、花の種を まいて花を咲かせたとされる、「コノハナ ノサクヤヒメ(木花之開耶姫)」の「さくや」 をとって「桜」になった、という説等があるようです。

散歩が好きな私にとって桜はまた散歩の楽しみを倍加させてくれる友でもあります。春は早々と花芽を付けて一足早い春を 告げ、一分咲きから始まり満開。そして花 吹雪と、短い間に様々な姿を見せてくれます。そして花が終わると、赤い桜蕊が道を 彩ります。やがて葉桜に変わり、夏が過ぎた初秋には早くも桜紅葉となり、更に葉を落とします。この落葉がとりわけ芳しいこ とをご存じでしょうか。落葉の中で桜は一番好きな匂いです。それから折れた桜の木は細かく刻んで燻製に使う最良のチップに なりますし、暖炉で燃やして芳しいのもまた桜です。貴木という言葉があるのであれば、間違いなく桜は貴木であると私は思っています。

この桜を、古くは小野小町が「花の色は 移りにけりな…」と歌い、西行は「願わく ば花の下にて春死なん…」と詠み、在原業平は「世の中にたえて桜のなかりせば春の 心はのどけからまし」と賛美しています。 また国学の祖、本居宣長は「敷島の大和心 を人問はば朝日ににほふ山ざくら花」と日本人と桜が切っても切れない縁で結ばれて いると称えています。連句の歌仙では二花、 三月が定座を得ています。月は引きあげた りこぼしたりできますが、花は出来ません。 律儀に春三月に咲く桜に似合った取り扱い ということでしょうか。もう一つ、私個人 の感想なのですが、月と対比して花(桜) について思うことは、これまで一度として 同じ場所で同じ人と花を見たことがないと いうことです。春は英語でSpring と言い ます。Spring はソファーやクッションに 使われているスプリングであり、動詞は「弾 む」です。春は「弾む」のです。アップダウンが激しく安定していません。春と言え ば満開の桜の下を連想しますが、現実には その間に雨が降ったり、底冷えがしたり、 大風も吹きます。予定の立てにくい季節で もあります。それ故、月見とは大幅に異なっ た行動が求められます。結果として同じ場 所で同じ人と見ないという結果になるのだ と自分なりに納得している次第です。

  話を冒頭の句を詠んだ芭蕉に戻します。 芭蕉はあまたの花の句を詠んでいますが、 そのほとんどが、冒頭のような抒情句では ありません。少し句を拾ってみましょう。

   顔に似ぬ発句も出でよ初桜
   風吹けば尾細うなる犬桜
   木のもとに汁も膾も桜かな
   四方より花吹き入れて鳰の波
   草履の尻折りて帰らん山桜

 連句で言うならばベタ付きの、花ににじ り寄ったような句に満ちています。そして お酒の好きな芭蕉らしく、大いに酒を飲ん だようです。

   呑み明けて花生にせん二升樽
   二日酔ひものかは花のあるあひだ
   挙句の果てには
   月花もなくて酒のむ独り哉

芭蕉にしてしかりであり、花の句の多く は意外と平凡であったり、即物的なものが 多いように思います。それは桜を眺めるこ とそれ自体が感動で、もうそれ以上は何も 要らないと思うからではないかと、ひそかに思っています。

さて、徒然草一三七段には「花は盛りに、 月は隈なきをのみ見るものかは」と書かれています。しかしやはり望の月や満開の桜 を見たいと思います。但し実際にはなかな かタイミングが合わずに見られないというのが現実でもあります。花の句の項の最後に、私自身の句の話をさせていただきます。 『南からの花便りを耳にしながら、心休ま らぬ多忙な日々を送っていたある日、電車 の窓からもう散らんとする満開の桜を目に しました。今の仕事や生活に一応のけりを 付けた後に見たかった桜が、今、目の前に 咲いていて、もう散ろうとしています。間に合わなかったか、という焦燥感と共に、 大きなものを失ってしまった喪失感がない まぜとなる目の前を、桜は知らん顔で遠ざかって行きます。そしてその瞬間、多分こ う呟いたと思います。「もう終わったか…」 と。』

   何か喪う気のせり車窓より桜   秀四郎