俳句随想

髙尾秀四郎

第11回 歳末の句

去年今年貫く棒のごときもの   高浜虚子

 「一年の過ぎるのが早い」というフレーズ は、もう「耳にタコ」の慣用句ですが、十一月、 十二月の時の早さはやはり特別です。「一年 は十二ヶ月もある、長い。」と思ったのは遠 い昔で、年々一年が短くなるように思います。それは繰り返すことが多く、慣れてき たせいだと思います。少年の日の一日は実 に長かったとしみじみ思います。しかも記憶に新しいのです。つまり記憶の溝が深い のでしょう。少年の夏の日に食べたものを 瞬時に思い起こすことはそんなに難しいことではありませんが、昨日のお昼に何を食べたかを思い出すのには相当の努力がいり ます。つまり昨日のお昼の食事に関する記憶の溝はほとんど溝にならないほど浅いのです。少年の日に覚えた歌は今でも空で歌 えます。しかし最近の流行歌の歌詞は何度覚えようとしてもすぐに消えてしまいます。 これもまた記憶の溝が浅いせいでしょう。 かくして一年は「矢の如く」とは申しませんが、「流れる如く」過ぎ去って行きます。

 こうして迎える年末。日本の年末とそれに続く新年は、何事にもけじめを付け、気持ちも新たに取り組むという日本人の律儀 で生真面目な性格を反映した日本独特の風 習ないし行事のようです。年末と年始には 際立った違いがあります。動と静、暗と明、 多忙と安寧、普段着と晴れ着等々、様々な 違いがあり、対照的な季と言えます。それは詩歌においても同様で、年末の句や歌と、 年始のそれとは全く別のものとして取り扱われ、詠まれてきました。歳末の句をいくつか拾ってみましょう。

    下駄買って箪笥の上や年の暮れ 永井荷風
    行く年やむざと剥たる烏賊の皮 久保田万太郎
    木枯らしや目刺しに残る海の色 芥川龍之介
    父祖の地に闇のしずまる大晦日 飯田蛇笏
    ただひとり風の音聞く大晦日 渥美清

 最後に掲げたのは「寅さん」の句ですが、 私生活では孤独な人であったようです。どれも年の暮れを特別の季として詠んでいます。 しかし冒頭の虚子の句は、これらの句に対して「いや違うのです。年末と年始はつながっているのです、その本質は何ら変わらない単 なる時間の経過にすぎないのです。」と、年 末や年始の句に対してアンチテーゼを突き付 けました。それは大きな衝撃であり、発見で あり、多くの俳人や詩人は多分「参った」と 心の中でつぶやいたに違いありません。さは さりながら、やはり日本の歳末と年始の変化 はとりわけ際立っておりドラマがあると思い ます。NHKの大河ドラマは概ね平安から鎌倉、戦国時代、幕末から明治維新を繰り返し 取り上げています。それはこの時代に大きな 変化があり、ドラマがあったからです。大きな変わり目の歳末と年始が同じという説は、 それはそれとして認めても、やはり違うという方が大勢を占めることになります。かくして歳末の俳句は、この変化やドラマを詠むことになります。

 このことにつながるかもしれませんが、 年末になると必ず思い出す映画のシーンがあります。今年は日本が生んだ「世界のク ロサワ」こと、黒澤明監督の生誕一○○年に当たるそうです。黒澤監督作品はどれも見ごたえのある作品ばかりですが、これからご紹介する作品は、黒澤明監督の代表作とは言えないB級の部類に入る作品のようです。題名は「醜聞(スキャンダル)」と言い、 ストーリーは概ね次の通りです。

 新進の画家(三船敏郎)がスクーターで絵画旅行の途中、山道で迷った女優(山口淑子) を後に乗せて町まで送ってあげます。しかし 女優を追ってきた三流雑誌の記者がこのシーンを写真に撮り「恋はスクーターに乗って」というでっちあげ記事を出します。事実に反したことを書かれた二人は協力して、法的手段に訴えようとします。そこに老弁護士(志 村喬)が弁護を申し出て来ます。翌日、名刺 にあった彼の事務所を訪ねると古いビルの屋 上の小屋のようなところで、競馬新聞などが散らかっています。しかしその横の壁に病床 にあると思しき可憐な娘さんの写真が貼ってあるのを見て、画家は「弁護を依頼する」と記したメモを残して行きます。その後、彼の家を訪ね、病床の娘さんを励ますため、画家と女優はクリスマスツリーや食べ物など持ち寄り、ささやかなクリスマス会を開いてあげます。そこに三流雑誌の代表に金を掴まされ飲まされて帰ってきた老弁護士が、その光景を目の当たりにし、いたたまれなくなって、 転げるように家を飛び出します。老弁護士と それを追った画家は、とある場末の酒場に入 ります。思い出すシーンはここからです。老弁護士は自責の念に堪え難く、立ちあがって言います。「俺は駄目な人間だ。今年は駄目 だった。でも来年は立ち直る、きっと立ち直る。」と。客もその言葉に共感を覚えたのか うなずいています。アコーデオンバンドは、 「蛍の光」を演奏し、皆がそれに合わせて合唱します。戦後の、厳しい経営を強いられている零細企業主、働かなければ子供を養えないホステスさん、勤め人等、カメラは目を潤 ませて「蛍の光」を歌う庶民をゆっくりと映し出して行きます。皆の心の中には「今年は駄目だった、来年こそは良い年にするぞ」と 誓っているように見えます。物語は、その後、 酷い弁護ながらも裁判に勝ち、記事が事実無 根であったことが証明され、ガード下に貼られた「恋はスクーターに乗って」という雑誌のポスターが古びて風に吹かれているシーンをもって終わりになります。

 私はこの酒場のシーンを見て、いささか突き放した発言にはなりますが、あの「蛍の光」 を歌った人の中で何人が今年を反省し、本当 に変わり得たのだろうかと思うのです。年末 には誰もが今年なし得なかったことや、妥協 してしまったこと、後悔すること等を思い、 来年を期すものですが、そのために具体的に どうするか、というところまで突き詰めな ければ結局は何も変わりません。「夢に時間 を入れよう」と呼びかける著名な経営者がい ますが、夢を具体化するために例えば夢に時 間を入れることで、その日までの日数が分かり、そのために、今何をしなければならない かが見えてきます。映画の中の場末の酒場に 集まった人たちの何人が、この夢に日付を入 れる、その夢のために具体的な行動を起こす、 ということを行っただろうかと、ふと思うの です。

 歳末の句はこのような反省や打ち消しきれないジレンマ、心の葛藤、それらをシンボリックに表す事物等とどう取り合わせるかが、作 句のポイントになるように思います。そうこ うする内にも、時は流れるように過ぎ、除夜 の鐘を聞く羽目になります。そして今年もまたこう思うのです。「今年は駄目だった。来年こそ…」

今年果つ自問の海に漂いつ  秀四郎