俳句随想

髙尾秀四郎

第10回 月の句

盗人の首領歌よむけふの月    蕪村

  冒頭の句は与謝蕪村の句です。蕪村の 句は客観写生の模範として正岡子規が激賞しました。発想もユニークで機知に富んでいます。蕪村は生まれつき俳諧味を 身に付けた人であったようです。その蕪村が詠んだ月の句です。「泥棒の首領でさえも風流心を呼び覚まされ、歌を詠まずにはいられないような十五夜の美しい月である」と。また夏目漱石の句には「明月(十五夜の月)に夜逃せうとて延ばしたる」があります。夜逃げをせねばならないような切羽詰まった一家に、夜逃げをもう一日延ばそうと思わせるような明月であるという句です。ましておや、風雅を愛する人や、とりあえず切羽詰まってはいない人が、秋の月に感動しないはずはないと、この二つの句は私たちに語りかけています。月はまた日本人が愛して止まない「雪月花」の一つでもあります。今回はこの「月」を取り上げてみたいと思います。

 蕪村を近代に至って、客観写生の典型句として取り上げた正岡子規から、むしろ酷評を受けた芭蕉に目を向けると、和漢の古典からの引用や本歌取りが多く見受けられる時期があります。少し話が逸れますが、芸道の基本として世阿弥が著した「風姿花伝」の中の「序破急」を下敷きに、千利休が、その後唱えた「守破離」という言葉があります。「守」は、師匠や先達の技をひたすら真似ること。そもそも「学ぶ」の語源が「まねぶ」であるので至極当然のことです。真似て学んで基本をマスターした後は、それを打「破」して一歩先に進み、自分なりの工夫をします。そしてそれが成功して初めて師匠や先達とは異なった、自分なりのオリジナリティを築くことができ、「離」が出来る、という学びのステップです。芭蕉の句をこの「守」「破」「離」というステップに分類すると、この「守」の時期に文字通り「まねる」という意味で、和漢の古典からの引用や本歌取りが多く見受けられます。月の詩人といえば唐では杜甫、李白。わが国では西行です。「守」の時期の芭蕉の句には唐の詩や故事、日本の古典である古今、新古今からの引用や、西行を含む本家取りの句が多いように思います。この芭蕉の「守」の句も含め、先達の詠んだものが多いということは、新たな発想で詠まない限り、ほぼ類似に終わる懼れがあるということでもあります。では月の句は出尽くしているかと言うと、答えは否です。俳句は器(十七文字)に対する入力源の多様性によって無限とも言える発想ができ、表現ができます。盛るお皿は小さくとも、そこに持ち込む素材は森羅万象であるので、俳句は無限の広がりを持つと言えそうです。振り返って、平成十九年九月のあした本部句会の兼題は「月見」でした。講評を要約すれば次の通りです。『俳句・連句の季語で雪月花は誰もが取り込みたいところ。しかし「月見」「望の月」「観月」に絞ると、俳人が一度は作句を試みているだけに難しい。もう「月を愛でる」という句はつまらない。作者が出る句が欲しかった。』

 この宇咲冬男先生の講評の肝は「作者が出る句」というくだりだと思います。人は千差万別。その人らしさが出れば、月並みな「月」の句も人並みになりそうです。因みに当日の特選句、秀逸句は次のようなものでした。どうやら当日の作句も選句も月並みではなかったようです

(特選句)
   月の宴嫋やかに舞う天女かな   天瑠子

(秀逸句)
   月見かな一行の詩の無限たり   恭子
   観月会人夫々の貌を持ち   世紫
   月の友それぞれが持つ自分の詩   秀四郎

 さて、月を語る時、避けて通ることのできない出来事がありました。確かに「忙しい現代人」という言葉のように、科学や技術の進歩によって生み出された時間や空間を利用して、もっと豊かで余裕のある生活を営めるはずが、時間に追われているという現実はありますが、かつて人類の英知の結集の一つとして、人類初の月面着陸という快挙がありました。今から約四十年前、一九六九年七月二十日の出来事です。その日、米国の宇宙飛行船アポロ11号に乗ったアームストロング船長らが人類で初めて月面に降り立ちました。それは人類の長年の夢の実現であると共に、手を伸ばせば触れることのできる距離からの月の映像を目の当たりにした瞬間でした。そしてまた、月にはウサギがいて餅を搗いている、かぐや姫が帰っていった星、そんな寓話やお伽噺が音もなく崩れ去った瞬間でもありました。では人間はこのことによって月にロマンを抱き得なくなったのでしょうか? この答えもまた否です。科学と文学の違いを人は無意識の中で切り分けます。事実の積み上げによってのみ成り立つ世界と、仮定や空想や虚構が認められる世界があることを知っています。人間はその脳の中で、これらをやすやすと取り扱う能力を持っています。ここに文学や芸術がなり立つ素地があり、その存在によって人は癒され豊かにもなるのだと思います。従ってこれからも月には、仙薬を盗んで逃げ込んだ女や仙人が住んでいるとか、様々な動物がいて宮殿までもあるという空想から生まれた、蟋娥(こうが)、嫦娥(じょうが)、桂男(かつらおとこ)、玉兎(ぎょくと)、月の兎、月の鼠、月の都、月宮殿(げっきゅうでん)や、月を喩えた月の鏡、月の剣、月の氷などの季語は、これからも生きると思いますし、進んで残したいとも思います。暑さが収まり涼やかな風が吹き渡る秋の夜、気が付けば煌々と輝く月。盗人の首領や夜逃げ人までも含めたあまたの先人たちが、様々な場所でさまざまに詠んだ月を、今に生きる証として、あなたらしい、あなたにしか詠めない句にしてみませんか。

   涙にも色のありけり月の秋    秀四郎