俳句随想
髙尾秀四郎
第9回 旅の句
五月雨を集めて涼し最上川 芭蕉
夏も八月に入るともう暦の上ではすぐに立秋となり、原爆忌や旧盆と、鎮魂の季節を迎えます。そして秋はまた旅を思う季節でもあります。冒頭の句は芭蕉が弟子の曾良と共に旅に出た元禄二年仲夏の末に、最上川のほとりの一栄こと高野平右衛門宅で連句を巻き、その発句とした句です。後に「五月雨を集めて早し最上川」と定まった句の原句です。芭蕉にとっては旅の句でもあります。芭蕉の書いた著述や芭蕉のことを弟子が書いた文献を読むと、芭蕉は俳句を詠むために旅に出たのではないかと思わせるものがあります。
今回は「旅の句」をテーマにしようと思いますが、その前に、旅自体の特質に関連すると思われるお話を一つご紹介しましよう。「南の島に来た青年」というお話です。
『ある南の島に、都会から青年がやってきました。島に着いた青年は島の古老に尋ねます。「この島はどんな島ですか?」古老はその問いに答える前に、こう問い返します。「君はどこから来たんだね?そこはどんな所だったかね?」青年は答えます。「人が溢れ、排気ガスに満ちた、人間関係もギクシャクした都会から来ました。そんな都会に疲れて、別天地を探してここにやって来ました。」すると、島の古老はこう答えます。「いや、この島も近頃は環境破壊が進んでね、人間関係も昔ほど良くはなくなった。物価も高い。だから余りお勧めはできないね。」
また、ある時、島に別の青年がやってきました。島に着いた青年は、島の古老に尋ねます。「この島はどんな島ですか?」古老はその問いに答える前に、またこう問い返します。「君はどこから来たのかね?そこはどんな所だったかね?」青年は答えます。「都会から来ました。何しろ人が多くて活気があり、可能性に溢れた街で、友人もたくさんいたんですが、自分の力でどれだけのことができるかを試したくて、人の少ないところを探して、ここに来ました。」すると、島の古老はこう答えます。「この島もなかなかいい所だよ。人情が厚くて、何よりも自然が美しい。君ならば何か新しいものを発見できるかも知れないね。」
同じ都会から、同じ島に来た二人の青年に対して、島の古老は異なった返答をしました。この話はつまり、その南の島を楽園にするのも、つまらない土地にするのも、結局は本人次第であるということを示唆しているようです。現在の環境に常に不満を抱え、原因を他人や環境のせいにしている人は、どこへ行っても誰と会っても、同じであること。逆に原因のほとんどを自分にあると考え、与えられた環境に対して、前向きに変えて行こうとしている人にとっては、どこも楽園であり、素晴らしい人達の住処であるということを、このお話は教えているように思います。この話はまた、旅の特質をも語っているように思います。思うに芭蕉は挿話の後者の青年のような気持ちや姿勢を持った人だったのかも知れません。旅を良いものにするかどうかは、どうやらその人本人に依存するようです。言い方を変えれば旅は自分に出会うための、自分探しの行動とも言えるようです。
もう一点、旅の特質を考えるために、皆さんのご経験を伺いたいと思います。初めて知人の家を訪ねた時、帰り道の方が往きの道のりよりも短く、早いと感じられたことはないでしょうか?往きは初めて見る町の風景や音や匂い、行き交う人々のどれもが新鮮で行き先が不案内であることも手伝って、目を皿のようにして注意深く見詰めるはずです。しかし帰りは一度通った道であるために、往き程神経を使いません。つまり往き道はその人にとって小さな旅なのだと思います。旅の本質のもう一つは旅が「心の漂泊」だということかと思います。旅に出れば心が「漂泊」し、不安定になり、多情多感になります。目に触れるもの、耳にする音、頬をなでる風にさえ、何かを感じずにはいられません。その意味で、2時間以上かかる新幹線通勤は旅ではありませんが、いつも降りる最寄駅をひと駅乗り過ごした数分の時間は旅なのだと思います。その数分は心が「漂泊」するからです。そして心が漂泊するからこそ、自分を自分で見つめると言う視点もまた生まれるように思います。そして、旅を楽しめる人は環境やそこに住む人を受け入れて、出会ったことに感謝する心を持つことのできる人と言えるのではないでしょうか。この「受容と感謝」を端的に表したものが「挨拶」であると思います。従って旅の句の要締の第一は「挨拶」だと思います。
冒頭の芭蕉の句は旅の句であると同時に挨拶の句でもあります。宇咲冬男先生の「薔薇は実に」の句がドイツのフランクフルト郊外の薔薇の町で句碑になった理由もまたここにあると思うのです。
この旅の句に求められる「挨拶」性に加えて、吟行などで語られる旅の句のコツについて少し言及してみます。
「季語」日本の季節の分類には二四節季があり、ほぼ二週間に一つの季が巡ってきます。従って季語も「今この時」にぴったりの季語があります。その季語はこの時にしか使えないという、正に「旬」の季語を使うべきです。これは連句の「季の句」の詠み方にも通じるものがあるように思います。旅の句の要締の二つ目は最適な季語の選択ではないかと思います。
「視点」 視点には大きく分けてミクロ(微視)とマクロ(巨視)があります。例えば、冬男先生の大虹の句や金子兜太氏の「暗黒や関東平野火事一つ」などは正にマクロの句と言えると思います。一方、「秋蝶となり紫を放ちけり(冬男)」の句はミクロの句です。方や何百キロという範囲の景を詠み、方や数センチの景を詠んでいます。旅に出て、中途半端な景はぼやけてしまいます。思い切ったマクロ、誰も気が付かないようなミクロ、その意外性や発見から良い句が生まれるようです。
「起承転結」物語に限らず、人の行動や出来事にも起承転結はあります。同様に旅にも、それがどんなに短いものであったとしても起承転結があります。旅に行こうと思い立つ、行き先のことを調べる、旅の衣を調える、周りの人に告げ、日記に記したりするという旅立ちまでの「起」から始まり、目的地に到着した後までの「承」必ず起こるハプニングや意外な展開の「転」。そして別れと再会を思う「結」に続きます。先述の季語同様、ここでしか湧かない思いやフレーズが必ずあるはずです。それが最適な季語と重なり、一番深い部分で「受容と感謝」の念を持ち合わせていれば、きっと琴線に触れる句が生まれると思います。旅はまた人生そのもの、人生の縮図でもあります。学ぶこと、教えられることに満ちており、句の題材にこと欠きません。
秋ともし家路にさえもある旅愁 秀四郎