俳句随想
髙尾秀四郎
第4回 写生句と心象句
舞台では賑やかなバンドの後にコミカルなコントが演じられています。もう4つも続いた喧騒とドタバタに、観客は笑いながらも生あくびを繰り返しています。ところがコントが終わると突然舞台は闇に包まれ、やがて一筋のスポットライトが、ギターを抱えたソロシンガーを浮き上がらせます。ギターの音色に合わせて抑えの聞いた澄んだ声がスローバラードを歌い始めました。観客が息を呑んで見守る中、今までと丸で違った静謐な時間が流れはじめます。そして歌が終わった瞬間、割れんばかりの拍手と賞賛の嵐に包まれます。しかし、もしもこの後、同じような趣向の出し物が長々と続けば、観客はまた先ほどの賑やかであった舞台が続いた時のように飽き飽きするでしょうし、再び賑やかな笑いを切望するかも知れません。
俳句の中には、写生句と人情句、叙景句と抒情句、具象句と象徴句などがありますが、どちらが優でどちらが劣という優劣の関係ではなく、バランスの問題ではないかと思っています。したがって、俳句を鑑賞する立場に立てば、すべてが写生句の句集を詠みたいとは思いませんし、全て抒情句の句集もまた同じことであると思います。それ故、俳句は全て写生句であるべきという主張に与するつもりはありませんし、全て心象句、象徴句でなければならないという主張にも与したくはありません。世には様々な事象があり様々な人間模様があります。思わず一句ひねりたくなる風景もあれば、打ち明けたい心情もあるでしょう。それらを自分なりに自由に詠むことこそが俳句の醍醐味であると思っています。今回は「写生句と心象句」をテーマとしますが、それは心象句や象徴句と対比される写生句や叙景句との二者択一の問題ではなく、あくまでもケースバイケースであり、自由に選ぶことのできるものであるべきと思っていることをまず申し上げたいと思います。
この立場に立って、近代俳句の提唱者、正岡子規、その精神を受け継いだその後の日本の俳句結社の系譜を考えれば、心象句を述べる前に、やはり何故写生句に拘るのか、という点についても考察する必要があるように思います。
洞穴をねぐらにしていた原始人がその洞穴に描いた動物の絵を絵画(芸術)のスタートとするならば、やはり初めは目についたものの描写から始まるのは当たり前のように思います。やがて、単なる描写から、動物の怖さを強調した絵、動物の気持ちを汲んだ絵、その抽象化したもの等と発展するはずです。人間が文字を生み出した後の詩歌や文学も同じステップを踏んだのではないでしょうか。
十九世紀にヨーロッパで生まれた潮流であるリアリズム(写実主義、文学では自然主義)は絵画や文学において客観写生を高々と標榜していました。またその後のシュールリアリズムは、超現実や非現実(もっとちかい現実、現実の向こうにある現実)を表現しようとする運動でした。十九世紀末の日本は、明治維新後、列強からの侵略の脅威を前に脱亜入欧とばかりに、まずは西欧を真似るところから始めて急速な近代化を進めていました。明治期の著述には、岡倉天心や新渡戸稲造などの例外はありましたが、おしなべて西欧礼讃亜細亜蔑視の傾向があったと思います。そのような潮流の中、子規の俳論に西欧のリアリズムが影響を与えないはずはなかったと思います。子規の「病牀六尺」の中に大要、次のような記述があります。「写生は画を画くにも、記事文を書くにも極めて重要である。西洋では用いられていた手法であって、日本ではこれをおろそかにしている。理想をとなえるひとは写実を浅薄なこととして排除するが、その実、理想の方がよほど浅薄である。なぜならば、理想は人間の考えを表すのであるから、その人間が非常な奇才でないかぎり類似と陳腐を免れないのは必然である。これに反して写生は天然を写すのであり、天然自然が変化しているだけ、写生も変化できる。写生に弊害がないとは言わないが、理想の弊害ほど甚だしくはないように思う。理想というものは一呼吸に屋根の上に飛び上がろうとして、かえって池の中に落ち込むようなことが多い。写生は平淡である代わりに、そのような仕損いはない。」
かつて、あしたの会の句会において、宇咲冬男先生が船で世界一周の旅に出られて不在の折、代行を務めさせていただいた時期がありました。その時、心象句と称して、「心」「思い」等、心象そのものを安易に表す言葉の句は採らないという方針を打ち出したことがありました。その主旨は、このような言葉を使うと、子規の言う「類似と陳腐を免れない」句のオンパレードになりかねないと危惧したからでした。話を子規に戻します。子規は俳句の改革の核に「客観写生」を据えて、その実践もしました。しかしその後の句には「幾たびも雪の深さを尋ねけり」のような写生を超えた主観の佳句もあまた残しています。俳句は客観写生でなければならないと主張する一方、生きる上での心情の吐露を俳句で行おうとするならば避けられなかった当然の帰結かと思いました。
さて、子規が客観写生の先達として大いに持ち上げた蕪村に対して、子規が酷評した、心象句、象徴句の先達である芭蕉は、宇咲冬男先生の言をお借りすればシュールリアリズムの先駆者ということになりますし、現在の俳句史の中でもその見解はすでに定まっているように思います。しかしこの芭蕉ですら、初めからシュールリアリズムに到達していた訳ではありません。連句の精神同様、一歩も後戻りすることなく猛スピードで変化し続けました。「マグロとイワシは会話ができない」という喩え話がありますが、新幹線並みのスピードで泳ぐマグロと自転車やオートバイ程度のスピードで泳ぐイワシは、ほんの一時点では接点があっても、あっという間に離されてしまいます。芭蕉には沢山の弟子がいましたが、彼の生涯を通して師事できた弟子がいなかったことは、その証明になるかも知れません。それだからこそ昇華された俳諧が残ったとも言えます。生き残るため、何かを進化させるためには自らが変わらなければならないのは、人も企業も同じであることを、この激動の世にあって、しみじみそう思います。そんな中、客観写生に拘り続けることの適否は、やはり改めて問い直されるべきではないかと思わずにはいられません。
さて、わが『俳句同人誌あした』は、その掲げた旗に「心象から象徴へ」と記しています。では写生句は詠まないのか、という問いが出てくるかも知れません。この問いに私はこう答えたいと思います。「俳句が俳句である限り、森羅万象の全てを詠みます。その中で、むろん心象も詠みます。そして心象を超えた象徴性の高い、心に響く句を目指したいと思います」と。