俳句随想
髙尾秀四郎
第3回 俳句文法
句会のような俳句実作の場において、純粋な俳句文法論議がある一方、俳句文法以前の問題が山ほどあり、その問題を解決しない限り、良い句は生まれないということをまずお話しした上で、最小限の俳句文法について言及したいと思っております。
人通りの少なかった交差する道に車が増え、しばしば事故が起こります。やがて交通信号が設置され、赤信号の待ち時間、信号機自体の維持コストが掛かる等の問題はありますが、反面、確実に事故は減少します。この交通信号が俳句の文法に匹敵するように思います。文法のチェックをすることは、少し手間は掛かりますが、事故(句の傷)を減らすことにつながります。俳句実作の場で、予選にも入選にも入らない句のレベルをアップさせたり、ご本人から表現したい思いを伺い、より的確な表現となるよう添削する場面がありますが、その場面で行われるテーマの多くが文法に関することであることからも、いかに文法が大切であるかが分かります。しかし文法的に正しいことは、良い句になる必要条件ではあっても、十分条件にはなり得ません。つまり俳句文法以前の問題、言い換えれば、いかに文法を直しても、直しきれない問題があると思います。
信号機の喩えで言うならば、信号機設置の前に、見通しの悪い急カーブをなくす、ブレーキの利かない車は走らせない、でこぼこの道をまず舗装する、免許制度を強化して、運転や交通法規の理解を深める、という類の話になります。このような俳句文法以前の問題として、例えば次のようなポイントがあげられるかと思います。
①主語が複数にはなっていないか? ②自分が出ているか? ③焦点が絞られているか?言い換えれば「切れ」ているか? ④何らかの発見、または視点に新味があるか? ⑤季語に「付く」か? ⑥饒舌に過ぎていないか?⑦何よりもまず詩的であるか?等などです。
主語が二つある句を例に取るならば、花を眺めている自分を詠みながら、同じ句の中に花を擬人化して主語にした物言いが混ざった句などは、ここに分類されます。このような根本的な部分を直さず、句の文法のみを直しても、決して駄句の粋を出ることはありません。所謂直しがいのない句となります。この俳句以前の問題に関しては、別の稿でお話するつもりでおりますが、ここでは、俳句文法を語る上でも特に留意すべきと思われる季語の問題のみ取り上げてみようと思います。
句会でしばしば問題視されることのひとつに、「季語の説明で終わっている」という指摘があります。初心者は季語を見ると、どうしてもそちらに目が移り、季語に着目して、その姿形、季語に関わる自らの記憶や出来事などを思い浮かべ、季語を修飾したり、季語を含む場面の説明などに走りがちです。しかし季語はそんなサポートを必要とするような軟弱な言葉ではありません。我々が考える以上にパワフルで、深い意味、高いレベルの情報や歴史を内包しています。それをなまじ多少の言葉で表現しようとすると中途半端になりますし、失敗します。次世代の経営を託したはずの経営者に対して、任せた側から、様々な場面で口出しをするようなものです。任されたと思っている経営者は折角持ち合わせた能力や才能を発揮できず、腐ってしまいます。この任された経営者が俳句の「季語」に相当し、任せた側が、俳句の初心者に当たります。選んだ季語には自由に振舞っていただき、その季語に「付く」事象や心情、事物を取り合わせて、相乗効果を図る方が、数段良い句に仕上がります。言い換えれば、我々は季語にもっと多くを期待し、表現したいことのキーワードとして、季語により多くを託して良いということです。
以上のような文法以前の問題をご認識いただいた上で、俳句文法について若干述べさせていただきます。但し、俳句文法論議については、俳句結社誌「あした」にて、ドクター・エックス氏が、長きに亘って記述されたコラムがあり、言い尽くされた感もありますので、ここでは、最小の努力で最大の効果をもたらすであろうと私が勝手に思い込んでおります次の二点に絞ってお話します。
一 役割に合った言葉の選択
二 切れと切り方
まずはじめの「役割に合った言葉の選択」ですが、動詞や用言を修飾する場合には副詞や連用形を、名詞や体言を修飾するには形容詞や連体形を用いるという当たり前のことの実践です。これはその都度、実作の場でお話する以外にご説明する方法が見当たりません。
次の俳句特有の「切れと切り方」ですが、俳句文法に関する誤りとしても、また俳句実作の場の添削においても、最も多く議論されるテーマです。切れ字の有無、切れ字を入れた箇所(上五、中七、下五)以外の箇所が切れていないか、即ち、二段切れ、三段切れになっていないかということです。このことを確実にするためには、切れ字のある箇所以外の箇所が「切れている」と耳でも目でも思わせない工夫をする必要があります。具体的には、切れていない文節の最後を、終止形や連体形または体言止めにしない配慮が必要ですし、季語を含む文節以外の箇所で切った(切れ字を入れる)場合には、その配慮はさらに重要になります。まずはこの二点により、飛躍的に文法の誤りが是正されるものと思います。しかし、そうするためにはどうすれば良いかが問題となります。この点について私は、日頃から正しい日本語を使うことの実践あるのみと思っています。今、悪しき言葉遣いの一例として「語尾上げ言葉」があります。この言葉遣いは、①相手への問いかけ ②相手からの応答 ③それへの自分の感想 ④それをベースにした話の展開、というステップを踏むべきところ、②から④のステップを飛ばし、突然に相手の同意を前提にしてしまうという意味において、極めて無礼で無神経な言葉遣いです。しかしこの言葉遣いを聞いて「おかしい」と思える普段の言葉遣いの習慣がなければ、引きずられて遣ってしまうかも知れません。見て美しく、聞いて響き良く、ストンと腑に落ちる言葉は文法的にも正しいものです。それを論理的に検証する方法が文法に他なりません。文法的に誤った言い回しを見た瞬間、聴いた瞬間に「おかしい」と思える感覚が醸成されているならば、本来文法論議は不要になります。そうなるための日頃の美しい日本語を使う習慣を身につけることが大切と思います。我田引水になりますが、俳句の実作自体が、その鍛錬に最も効果的であり有効と思っております。そしてもう一点。俳句文法以前の問題の中でも特筆すべき季語に関して、選んだ季語にいかにピタリと「付く」対象を選ぶか、の鍛錬に最も有効なのは、多分連句の実作ではなかろうかということを申し上げて、本稿の結びとさせていただきます。