俳句随想

髙尾秀四郎

第 99 回  寺山修司の俳句

目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹  修司

昨年末の書斎の片づけで見つけた記事を元に第97回の「坂東三津五郎さんの俳句について」を書きましたが、もう一つすっかり忘れていた雑誌を見つけていました。今から33年前の1993年12月に発行された「寺山修司が生前に構想した同人誌『雷帝』創刊最終号」と書かれた冊子です。この冊子は寺山修司没後十年の時点で、寺山と同人誌を作ろうと思っていた5名の文化人が出したもので、創刊号でありながら終刊号となった冊子です。その中には寺山の未収録作品としての遺稿や寺山に関して書かれた論評等が掲載されていました。その一つに「寺山修司と俳句・その俳論を中心に」という俳人の宗田安正氏の投稿が掲載されていました。その中で寺山が俳句という不自由な(表現)形式を選んだいきさつについて、敗戦によりあらゆる価値が崩れ、たとえば家族集団の構造や言語の形態に至るまで「形」が全く失われていたため、自由を乗りきるためにもルール(形式)が欲しかったこと、またそれに関連して「のびすぎた僕の身長がシャツのなかへかくれたがるように、若さが僕に様式という枷を必要とした。」という寺山の遺した言葉を引用して、寺山にとって形式の選択が主体的な精神にかかわるものであったことを紹介していました。

今回は、この「雷帝」を引き金として、俳人と呼ぶにはあまりにも多才であった寺山修司の俳句について書かせていただきます。

ここで少し脇道に逸れますが、国家試験の受験勉強で寮生活をしていた学生の頃、外部からの情報はもっぱら新聞とラジオでした。そのラジオから爽やかで青春の憂いを感じさせる歌が聞こえてきて、その歌詞と歌声に共鳴していました。歌うのは小椋佳という人物で、当時はまだネット社会ではなかったため、その素性を調べる術もありませんでした。試験に合格して寮を出た頃に、そのシンガーソングライターはブレイクし、誰もが知る存在となりました。寺山修司の俳句を書こうと思い立った後、その小椋佳さんと谷村新司さんが2014年に対談と歌を披露した番組がBSで放送されていて、小椋佳さんはなつかしい「さらば青春」や「白い一日」共演で「白いシクラメン」などを歌い、トークでは今まで聞いたことのなかった様々なエピソードが語られました。小椋佳さんは寺山修司のことを全く知らなかった学生時代に、彼の演出する舞台劇を見て、自分はあの幕のこちら側にいるべきではなく向こう側にいるべきと思って、劇場を出てすぐに寺山に電話をし、一緒にやりませんかと言ったものの、寺山からは丁重に断られたこと。その後寺山がMCを務めるラジオ番組に出させて貰う機会を得たことから、寺山の家に集まって詩を作る会に招かれ、作った詩に即興で曲を付けることなどをした話がありました。当時は無名の小椋佳と当時すでに前衛芸術の旗手であった寺山修司とが接点を持っていたことを知って、これから俳句随想で書こうと思っていた寺山修司が急に身近な存在に思えるようになりました。

まずは寺山の経歴です。この点においても俳句随想第99回髙尾秀四郎寺山修司の俳句23余りに多才であったため、その華々しい経歴は相当に長くなるため、ここは思い切り省略して主な年譜として書かせていただきます。

1935年(昭和10年)12月10日 青森県生まれ。1951年(昭和26年) 青森県立青森高等学校進学。1954年(昭和29年) 早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学。第2回短歌研究50首詠(後の短歌研究新人賞)受賞。1967年(昭和42年)1月1日 「天井桟敷」を結成。1974年(昭和49年) 映画『田園に死す』で文化庁芸術祭奨励新人賞、芸術選奨新人賞を受賞。1983年(昭和58年) 肝硬変のため入院。腹膜炎を併発し、敗血症で死去。享年47歳。

俳人の五十嵐秀彦氏が平成15年(2003年)の現代俳句評論賞を受賞された「寺山修二俳句論」の中で、寺山が39歳の時に出した句集「花粉航海」に掲載されている句の分析を行い、寺山自身は「ここに収めた句は『愚者の船』をのぞく大半が私の高校生時代のものである。」と言っているものの、掲載句230句中に、確かに高校生の頃に世に出した句(これを五十嵐氏は“アリバイのある句”と称している)は105句で、アリバイのない句が125句もあって、この句集は高校生の頃に詠んだ句の句集ではなく、その後に詠んだものを多く含む句集であると断じると共に、この句集自体が寺山一流の虚構であったという仮説が成り立つと述べられています。また五十嵐氏は寺山のこの虚構について、寺山の次のことばを引用してもいます。「ホントより、ウソの方が人間的真実である、というのが私の人生論である。なぜならホントは人間なしでも存在するが、ウソは人間なしでは、決して存在しないからである。」

ここで寺山修司が詠んだ句からいくつかを抽いてみます。その前に、本稿の冒頭の句は彼が生まれた5月を詠んだもので、彼は5月4日に生れ、奇しくも5月4日に亡くなっています。翌日は初夏という晩春の最後の日です。彼が敗戦、社会規範の転換、混乱からの復興という社会の変化の只中にあったことを窺わせる句が多く見うけられます。

燕の巣母の表札風に古り
耕すや遠くのラジオは尋ねびと
山鳩啼く祈りわれより母ながき
大揚羽教師ひとりのときは優し
黒穂抜き母音息づく混血児
べつの蝉鳴きつぎの母の嘘小さし
他郷にてのびし髭剃る桜桃忌
母と別れしあとも祭の笛通る
胸痛きまで鉄棒に凭り鰯雲
私生児が畳をかつぐ秋まつり
桃太る夜は怒りを詩にこめて
アカハタと葱置くベット五月来たる
ラグビーの頬傷ほてる海見ては
船去って鱈場の雨の粗く降る

この章の最後に寺山の死後に彼の評論や対談、エッセイなどを集めた「墓場まで何マイル?」の中の次の独白をご紹介します。「私は肝硬変で死ぬだろう。このことだけははっきりしている。だが、だからといって墓は建てて欲しくない。私の墓は私のことばであれば充分」そして寺山と接点のあった小椋佳さんが番組の終わりで、何か後輩たちに言うことはありませんか?という問いに対して「美しい日本語を大切にして、言葉を守り育てて欲しい」という主旨のことを話されていました。共に言葉の文芸に生きる私たちにとって大変重いメッセージであると思いました。