私の一句

安田 孝

 捌きつつ板前河豚を愛すなり   孝

ふぐ料理屋『とんぼ』の旦那、六才兄ィとの出会いから四十五年、義兄弟の盃を交わした仲である。三井記念 病院にすぐの清洲橋通りを渡ると、台東区浅草橋。その路地裏に池波正太郎のいう小体で粋な店がある。常連は 指物師、香具師の元締、江戸火消しの頭の末裔、ボタン屋など、職人の多い土地柄、年一回の一泊旅行はなんとも懐かしい。

六才兄ィの、カウンター越しの河豚を捌く姿は静謐、 慈しみ、全神経の指尖への集中まさに刻透明、値千金で ある。一方、私の病院勤務はつらいことの連続、なかでも五十過ぎての凡そ十年にわたる医療裁判はあまりに苛酷、筆舌に尽きせぬ非情、医療裁判に勝者も敗者もない。

そんな私を支えてくれたのは女房の無言の励まし、そしてまさに『とんぼ』の大きな赤提灯、土地に染みついた「もののあわれ」、それに尽きる。そして今の私がある。