ミニエッセイ  -思ううがまま-

変 遷

菅谷ユキエ

宮澤賢治が「雨にも負けず、風にも負けず」の詩の中で理想としていた様な、農業人が亡くなり、かつて農業地帯だった私の住んで居る囲りで否応無しの変革が起きています。一九六六年国鉄の新駅が開業され、二十二、三年して近隣の区画整理が完成してから、現在まで三十余年。

後継者の居なくなった農地は分譲され、日に日にと思う程の早さで宅地化が進みました。

銀行、郵便局、コンビニ、スーパー、病院の集合地区も出来て、生活に困らない程度に整いました。

約半世紀余り、農村が都会化して行く中での生活は貴重な経験だったと思っています。

嫁ぐ人

髙尾秀四郎

五月の日経歌壇に「美しくなったと思うと嫁ぐのね茶道師匠の最後の言葉」という短歌が掲載されていた。かつて毎日電車通勤をしていた頃、決まった時間に乗り込む電車の顔ぶれはほぼ決まっていて、いつもの顔が見えないと心配したり等した。そんな常連の中に妙齢の女性がいて、日に日に美しさが増すように思えていたが、ある日を境に見かけることがなくなった。その時ふと「ああ結婚されたのかも知れない。」と思ったことを、冒頭の短歌を読んで思い出した。人は何かの目標に向かって生きていると自ずとその姿に変化が生まれるのだろう。そしてその目標が心躍るものであれば美しくもなるのだと思った。

母の日

高橋たかえ

先日「母の日」を前に、五色のカーネーションの花束が届きました。遠方に住む姪からのプレゼントでした。色の変化もうれしく感謝です。そもそもカーネーションの花は何色あるのでしょうか。

日々、交配に改良にと研究を重ねる人々の並々ならぬ努力の結果、諸々の花が変化しています。名前さえ横文字となり、昔の鉢植えの棚もすっかり様変りしてしまいました。

寄る年波にはさからえず、何事も一変、二変した生活のリズムに空しさを感じます。

古き日に母に贈った造花の一本に郷愁をおぼえ、今花束を胸に「ありがとう」の一言でした。

野 茨

田口 晶子

フジコ・ヘミングさんの訃報を知ったのはGWの最中だった。何気なく聞いていたラジオのニュースで、その一報に触れた時、一瞬耳を疑った。

今年の一月に予定されていたコンサートを楽しみにしていたのだが、怪我が原因で七月に延期されていた。前から四列目の席で、演奏を間近に感じられると、心弾ませていたからである。その太い指から奏でられるラ・カンパネラは唯一無二の音色なのである

不思議な事に、例年は控え目に咲いていた野茨が、ドーム状に枝葉を張り恐ろしい迄に咲き乱れている無垢の白…。オーケストラと協演するフジコさんの姿に重なった。   合掌

母の日

竹本いくこ

自分が子供の頃、”母の日“というものが果して存在していたのだろうか。有ったという確かな記憶はすでに無い。今年も母の日がやってきた。娘三人からそれぞれ色取りどりのカーネーションが私の手元に届けられた。私自身は我が母に何をしてあげたのだろうかと思う。

娘三人も、それぞれが母親になり、娘達も子供達に祝ってもらっているのだろう。私自身は母の日に何もしなかった。

こうして母の日を祝ってもらっている事に嬉しさと少しばかりの後悔で胸がいっぱいになる。次の晴れた日に、カーネーションを持ってお墓参りに行ってみようか。

私の台所

次山 和子

昭和生まれの私にとっては、キッチンと呼ぶより台所。六十五年間、ここは朝な夕な家族のために食事を作り続けて来た場所であり、時に一人、そっと涙を拭った場所でもありました。外に仕事を持っていた当時は「時間が欲しい」が切実な願い。夕五時、残った仕事を抱えてバス停に急ぐ毎日でした。家に着けば夕食を待ち焦がれている子供達のために手早く料理。二人暮しの今は大きすぎる寸胴鍋や大きな蒸し器が大活躍でした。合羽橋で求めた包丁は、研いで研いで今はずい分小さくなりましたが手に馴染んでいます。

 陋屋に茄子田楽の味噌の照り
 俎板に千の傷あと晩夏光