ミニエッセイ -思ううがまま-
長嶋茂雄さん |
渡部 春水 |
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6月3日に89歳で亡くなった長嶋茂雄さんのプレーを初めて観戦したのは昭和32年春の神宮球場の早稲田応援席。立教の4番サードの軽快な守備と強打が記憶に残る。ユニフォームは全体的にゆったりとして今のように身体にぴったりとしたものではなかった。その秋に巨人へ入団し一挙にスターへ。少年時代から阪神ファンで巨人嫌いだが、長嶋さんの野球人生には敬意を払う。特にサムライジャパンの監督時に脳梗塞で倒れ晩年までリハビリを続け国民栄誉賞を得た闘魂は無双。大谷ほかMLBを目指す選手が増え、日本のブロ野球への人気は昔ほどではないようだ。 西日燦サード長嶋不滅です 春水 |
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戦後八十年 |
山田他美子 |
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今年は昭和百年、戦後八十年ということでマスコミの様々な特集や各種の展覧会が開かれてきた。私はテレビからの懐かしい映像や流行歌につい見入ってしまったりもした。 団塊世代の私は戦争そのものを知らないが父や母、叔父や叔母達から満州での生活や引揚げ時の苦労話、戦前の神戸のあり様などをお正月に皆が集まった時はよく聞かされた。 祖母は「昔は箪笥に着物がいっぱい入っていたんだよ。それが全部お米に変わってしまった」とよく嘆いていた。また茶道の先生は茶会の懐石膳の盛り付では胡麻一粒も無駄にせずに口に入れるのを見て驚いたが、戦後骨と皮になって戻った南洋帰りとの事だった。 |
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辞書のこと |
青木つね子 |
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私のリビングにはいつも身近に電子辞書がある。これまでさまざまな辞書を捲ってきたが便利なこの電子辞書に収録されているのは広辞苑第七版である。広辞苑の初版は昭和三十年新村出編纂岩波書店発行でその参考の基となったのが新村出自ら編纂の昭和十年博文館発行の辞苑だった。それを知った私の脳裡は八十年も遡って思い出を辿っていた。「辞苑」は小学校四年生の時、父が買って呉れた最初の辞書である。旧漢字旧仮名遣いで私は成長したが現代は通用せず忘れていたものである。思わぬ出遭いに感慨深く今は何処へいったのか? 青表紙の重たい感触を改めて思い起しこの拙文を前に電子辞書を掌にしている。 |
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あれ‼右脚が |
芦澤 湧字 |
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三月の始め突然右脚に異変が。百メートルも歩くと痛みが走り立ち止まらざるを得ない。これはいかんと整形外科を受診。レントゲン検査の結果加齢により背骨に隙間が生じ神経に触るための痛み、坐骨神経痛との診断。痛み止めと湿布薬を処方してくれた。次の通院の時も痛みに変化はなくその旨伝えると、あとはブロック注射で痛みを止めるとのこと。 それは避けたいと娘に話をすると整骨院を紹介してくれた。その先生はインナーマッスルを鍛え脊椎を筋肉で支えるトレーニングの指導と施術。一か月余り続けると日常の歩行に支障無い生活に戻った。その時期の一句 薄暑光今日右脚の機嫌良し |
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屋久島にて |
足立 眸 |
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五月末、屋久島で海亀の産卵を見る機会があり、夕食後、薄暗い浜へ。産卵中は頭部に光は厳禁、お尻にライトを光てると頑丈そうな穴にポトリ、ポトリと落とすのですが卵は割れず、前に廻ると涙は分からず、でも亀にとっては太古の昔から命を継ぐ大仕事、心の中で「ガンバレ、ガンバレ」とエールを送りました。百個位産むと後足で器用に砂をかけ、少し下がって穴の上に体を乗せて確認し、又、元の位置に戻り卵の位置が分からない様、丁寧に砂をかけ、一メートル位前に進み向きを変えて海に戻る時、中には時々振り返り乍ら戻る亀もいるとか。亀にも個性、母性があるのだと分かり、皆で拍手で見送りました。 今回の発見は、この地域の教育です。江戸時代初期から寺子屋があり、その数も他の地域より多かったようです。商家では女将さんが中心となって奉公人に所謂「読み・書き・算盤」を教え、考える力を養いました。これが近江商人の活躍を支え、近代では朝鮮半島や大陸へと青年を誘う土台となったのです。 |
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一本の山毛欅の木 |
江森 京香 |
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熊谷市の荒川に架かる押切橋は昔、治水整備が未整備の頃、洪水の勢いで堤防を突き崩し田畑を駆けぬけ、物を断ちきるという意味から押切と呼ばれている。橋のすぐ横に建つ神社に一本の大きな山毛欅の木が立っていた。 冬枯れの中で雄大な樹形に魅せられた私は散歩の度に幹に触れ、手の平に鼓動が伝わってくるのが楽しみな朝のひとときであった。でも残念なことに一年程前に敢え無く伐採されてしまった。落葉の始末や橋に障る事などが理由であった。夕暮れの中に黒い枝と幹だけが自然の彫刻のようにシルエットとなり浮かぶ姿は精霊が宿る孤高の木となり一枚の写真と共に私の心に今も生きつづけている。 |
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