ミニエッセイ  -思ううがまま-

白米千枚田

宮本 艶子

バスツアーで奥能登・輪島の白米(しろよね)千枚田に行きました。生産者のガイドで散策します。海から迫り上がる棚田は千四枚。「蓑の下耕し残る田二枚」と語り継がれる一枚の田には三株の苗が植えられていました。植田にはお玉杓子が泳ぎ、田螺が顔を出しており、思い思いに「懐かしい‼」との歓声があがりました。現在、棚田の景観を観光の目玉としている所も多くなりました。この農業遺産を守るためにオーナー制度があり、田中の標識には小泉純一郎・進次郎親子、朝ドラの土屋太鳳さんらの名がありました。心を豊かにするスローライフと先人の血の滲む汗を身をもって知る旅でした。

離島行脚

森川 敬三

相変わらずの全国吟行。近年は離島行脚で、今年六月は呉市の大崎下島から下蒲刈島です。大崎下島は、江戸時代の北前船が風待ち潮待ちした地で、特に知られた御手洗集落は当時の町並みや施設をよく残します。土曜日に訪れたのですが、まだまだ人の少ないのがいい。そこから橋でつながっている豊島、上蒲刈島、下蒲刈島と渡ります。下蒲刈島は、昨年ユネスコの世界記憶遺産に認定された朝鮮通信使の宿泊地です。資料施設松濤園に、その歴史と文化がよくまとまっています。通信使一行が上陸した三之瀬には、船着き場「雁木」が当時のまま残ります。雁木に腰を下ろして潮風を受けていると、時間の流れを逸脱します。

前向きに

矢倉 澄子

私は一九三〇年、昭和五年四月生まれ、花の便りの届く頃、八十八才、米寿の誕生日を迎えました。ふと私の八十八年を、何気なく振り返り年表を開くと、生まれて以来の昭和初期は世界を被う不況の最中、大恐慌に加えて戦争への兆しを窺う、暗い厳しい時代でした。記憶の底に埋めていたこの時代を思わず掘り起こし、今更のように大きく動揺しました。

さて、私は地元玉川学園駅前の文化センターで、月一回の歴史講座を楽しんでいます。西欧諸国の成り立ち、多くの国々の特徴、文化にふれ、年代物のビデオに感動、そして何よりも、多くの知人、友人との出逢いが嬉しく、良い時を過ごしている昨今です。

私の休日

   安田 孝 

明け方三時~四時頃までエッセイ、俳誌、好きな作家の小説などを読み返し、ワインを座右に死を迷想する。死とはなんぞやと。究極の難問である。(逃水や命の果てのうすあかり) せめてうす明かりでも。冬男師今生の一句(逃水の果て敦煌のありにけり)私に敦煌はない。(有終の確かなる日よ蝉生るる)死期を覚った人の精神世界如何許りか。自裁した友を愁いつつ。一生の集大成が死であると。そう想わざるには居れない。

心筋梗塞、脳梗塞、癌と三大疾病を患っている身にも明日はある。句友の先輩方の勇気を支えとして。(女房の小言に蟇の声和する)夜のしじまを時に雑音が入る。

リズム体操

柳瀬 富子

地域の長寿会の誘いで「リズム体操」を始めるからと、私も参加した。女性のみ十二名位だったと思う。長寿会長さんは女性で体操の指導も熱心にやって下さった。手足の指もみから始まり、腕を前後に振るのを音楽に合わせて五〇〇回。途中休憩して又五〇〇回。最初はかなりきつかったが慣れると体が軽くなった感じ。次に輪投げ、これが又愉快で調子のよい時と悪い時の差が出て爆笑する。最後は昔なつかしい数え歌や童謡を、音痴を気にせずに大声で合唱する。月に二回四年程続いたが高齢となり体の不調で参加者が減り、ついに閉会となってしまった。一人では仲々やる気が出ずに体力の減退を感じている。

初めての船旅

山崎 宗喜

私は生れて初めてダイヤモンド・プリンセスでの船旅を経験しました。横浜港から横浜港に戻る六日間の海上生活です。

乗船時、氏名と部屋番号等を書いてあるカードを渡され、それが部屋のキイであり、買物の支払いもすべて、そのカードを利用するようになっていました。二人部屋で海側に窓があり、室温等適切に調節されており、快適でした。二日目の夕食時、ブラウスかワンピースでと言われ、一張羅の洋服を着ました。

この船には二八〇〇名のお客さんで、その内二三〇〇名が日本人と紹介されました。

日本語の上手な客室乗務員、ウエーター等安心で楽しい旅をすることができました。