ミニエッセイ  -思ううがまま-

蝶の来る庭

越智みよ子

いつ頃のことだったか「蝶の来る庭」というテレビ番組を見た。その時すぐに反応した食草や好みの花などいくつか植えてみた。黄蝶や紋白蝶には菜の花を、セリ科のみつばとあしたばは揚羽や黒揚羽の為に、又青い鱗片の美しい翅を持った烏揚羽にはサンショウを、そして豹文蝶にはワレモコウやすみれ?を植えた。蜜を求め色々な蝶が好んで集まるブットレア、強烈なオレンジ色の花で誘う鬼百合など。今吾が家の庭には、前述の蝶達がこもごも集う。そして高原や山でしか見られないような数種のタテハ類や、日陰蝶の仲間や長距離移動をする浅黄斑もふらっと立ち寄っては一時遊んで帰って行く。

米寿越え

角田 双柿

今の私は、「動かなければ寝たきりになるぞ」との指導助言に従い、歩くことを生活の基本に据えて歩き続けております。 日常の散歩は、日の出と落日の変化に富んだ明け方と夕方ですが、特に猛暑日の多い夏場は、一日の内で一番気温が下がり、歩くには快適で清涼感のあるひと時です。

散歩には、歩行計と俳句手帖を携えて出掛けますが、四季折々の花との出合いが楽しめる忍川と花の熊谷堤を中心に花から花へと渡り歩いております。健康づくりの散歩に趣味の俳句や山野草への思いが交錯して、思わぬ歩数の伸びに驚くこともあります。  

米寿越え燃えいて涼し茜空  双柿

石川啄木

春日通りにつながる足跡

川上 綾子

本郷三丁目交叉点より池袋方面に向かう春日通りの真砂坂上に新聞社の職を得た啄木が「喜之床」という床屋の二階に間借する。現在「喜之床」は明治村に移されて在る。今は「新井理髪店」として五代目が営業されている。真砂坂を下り左に講道館、シビックをみて富坂を上ると、左に中央大学更に茗荷谷方面に向かい銀行の横を道なりに右へ、左に小石川図書館そして右へ緩い坂を下ると、そこが啄木の終焉の地。小石川久堅町の宇津木家の貸間に移り八ヶ月後に二十六才の若さで生涯を閉じた。ふるさとの姫神山の石に刻まれた最後の歌、碑に〈呼吸すれば胸の中にて鳴る音あり凩よりもさびしきその音〉姫神山の石と最後の歌が、生誕と終焉を結ぶ、と顕彰室の案内にあった。

糠味噌

川岸 冨貴

梶の葉の仲間内で回し読みをしている本の中に「夏目家の福猫」半藤末利著があった。その中に夏目家の、彼の有名な糠味噌のことが書かれていた。鏡子夫人が先代から筆子さんへ、今は末利さんが受け継いでいて、糠床の美味しくなるコツも書いている。友逹の間でとても好評とあった。近年は糠味噌を持っている人は珍しい、私もその一人だったが俄然、好奇心を刺激され、仕舞って久しい甕を持ち出して糠床を作り一冬を越した。庭の山椒の実を入れ、緩んだ時は大豆を炒って入れて香ばしく。老女子会に持参すると菓子類より喜ばれる。尽す、奉仕する本能が人に潜在するなら、今、私は糠床に入れ揚げている。

母の小さな動物園

河野 桂華

母は小学校の時、ケガを治したカラスをランドセルに乗っけて通っていたとのこと。「あなた達は自分でできるのだから動物の餌が先々。」と優先順位のあったわが家の食卓。犬、猫、鳥達との幼少期の生活。動物達の特性を知ることは私の喜びであり、様々な人がいることを理解しようと努力する姿勢が良かれ悪かれその時に身に付いた様に思われる。「本を読むこと、映画を観ること、自然の中に身を置くこと、動物と戯れること」それが母の人生そのもの。父と会社を建ち上げ50年。「花一面蝶自来」という企業理念が生き続いているのは、母の原点が、その小さな動物園から発想されたものであるからであろう…と。

都営バス路線 「田 87 系統」

岸田 芳雄

渋谷から明治通りを経て恵比須、白金エリアの住民の足となっている「田87系統」はここ五年縁あって利用しきりのバス路線。上京したのは昭和三十五年、港区白金三光町「国立自然教育園」を一望できるアパートの一室にである。六本木の勤務先へは魚籃坂下停留所、都バス一本約二十分のラクラク通勤だった。沿線には、フランス、中国、ドイツ等、各国大使館。慶応大学、聖心女学院、慶應幼稚舎、北里大学研究所、等々。現在、恵比寿駅上に趣味サークル出席のため利用。恵比須は住みたい町の上位にランクされるほどの人気あるタウンとか。ポッと出の田舎者の驚きおどろき、佳きかなです。