一句一筆 (第九十三号より)

森川 敬三

ぼうたんや笑顔は人を美しく  浜田天瑠子

嘉門さんは四国遍路をなさっています。そのことを考え合わせると、この句に込められた心が響いてきます。札所の地理的状況やご本尊。お参りをしているときの時鳥の声。季語によって空間的、心理的な無限の広がりと癒しを感じます。私も五回廻りました。遍路は宗教的な行いですが、同時に身も心も解き放たれるような感覚を味わうことがあり、それが忘れられません。

山峡の地蔵菩薩やほととぎす  藤本 嘉門

いつのころからか、乳幼児を初めて公園に連れていって遊ばせることを「公園デビュー」というようになりました。「○○デビュー」という言い方が他に幾つもあります。俳句に未成熟な現代語を用いることに抵抗を覚える人も少なくありません。けれども、掲句はその「公園デビュー」で現代を詠んだのです。暖かさの増す公園の明るさや楽しさ、親の心持も一語で表現されています。

武器を捨て草矢のかおる距離をこそ  宮本 艶子

私も遊びをしました。薄や茅の茎を矢のようにして投げ合います。小さな子には山なりに投げたりして。ところが、紛争や戦争が絶えない大人の世界では、声が届かない、姿も見えない相手をミサイルや無人機で無差別に攻撃しています。なぜ大人には余裕がなくなってしまうのか。無慈悲な武器を捨て「草矢のかおる距離」で声を届け合う余裕を持ってほしいという願いを共有します。

大き目の鉢にやすらぎ菊芽挿す  柳瀬 富子

大菊を育てていらっしゃるのです。以前は私の家の近くでも何軒も菊を育てていて、秋には玄関に大輪の鉢が並んでいたものです。話を聞いたところでは、菊栽培は一年中いろいろな作業があるそうですね。掲句は、親株から新芽を切り取り、鉢の用土に差し込んだところ。大きめの鉢に植えると、菊芽も富子さん自身もほっとしています。大輪を咲かせてくれる期待感でもありましょう。

文庫本胸に伏せたる午睡かな  山田他美子

ご自分の姿でしょうか、家人のどなたかでしょうか。いずれにしても生活の中でしばしばある光景です。「胸」の一語によって、まるで物語の続きを夢に見ているようです。最近、「寝落ち」という言葉をしばしば耳にします。あるところには、「チャットやオンラインゲームなどの最中に眠ってしまうこと」とありました。何といっても私たちの世代は「文庫本」ですね。

植田風天領を継ぐ一町歩  渡部 春水

一町歩というととても広いイメージ。サッカーコート一.四面分ほどです。もちろん、この「一町歩」は、正確な面積を表しているのではなく、「とても広いこと」を譬えた表現です。機械化された現代農業でも、農作業は大変。その分、植え終った田を見渡すと晴れ晴れとします。「天領」は、春水さんの故郷会津のそれと読みました。

老鶯やときに叱咤と聴きもして  青木つね子

鶯は春の鳥ですが、夏の鶯の鳴き方は上手で、季節柄すがすがしく感じます。とかく老け込みがちな自分だが、老いには老いの良さがあり、老いの良さを生かして生きなさいと老鶯に叱られているように感じたのです。私も「老い」の年代に入りました。〈老鶯やみだりに弱音吐かざりき つね子〉と、受け入れるべきは受け入れ前向きに生きようとするつね子さんに共感します。

待ち人の来ぬ黄昏に梅雨の月  芹澤 湧字

人を待っているときの落ち着かない気分を「梅雨の月」で表現なさったものと読みました。待ち合わせの時刻を過ぎても相手が来ない。私もこのようなとき、相手に何かあったのではないか、自分が日時を間違えたのではないか、そのような不安が去来します。「黄昏」も私のいう不安感を醸成します。それぞれの措辞が綿密に関連し、人物の心情がよく分かります。

焼酎に酔ひエヴァンスに浸りけり  安西 信之

至福のひとときですね。ビル・エヴァンスは私も好きなピアニストの一人。この稿を書き始める前に貧しいコレクションの中から「Explorations」を引っ張り出して、久しぶりに聞きながら書いています。ジャズにはバーボンなどのウイスキー系が似合うと言いますが、そのようなことはどうでもよいのです。これまた私も好きな「焼酎」の俳諧味!酔いとジャズ、「浸る」が相応しい。

北斎の龍の眼光梅雨の雷  江森 京香

「龍の眼」は、長野県小布施市の祭屋台天井絵「龍図」、あるいは「富士越龍図」でしょう。特に「富士越龍図」は龍の背景が黒雲なので、見ようによっては眼の辺りが光っているようにも見えます。龍は、雨を呼びます。季語「梅雨の雷」に納得します。漢字名詞と一字助詞「の」だけで表記された句の姿を見ると、「北斎」を頭とする龍に見えてくるから不思議です。

雪解富士軛の解けて西の旅  岡崎 仁志

掲句の「軛」はお仕事でしょうか。職を退いての気ままな旅と読みました。新幹線の中でもありましょう。「雪解富士」の威容が、麓、裾野の樹々の緑に映えて読者にも見えます。その富士の山容が心地いいのです。どっしりと構えてこれからの人生を楽しもうという、気持ちを切り替えるきっかけを与えてくれます。〈打水の路地から大路今日の宿 仁志〉へと続きます。

蛇の衣六尺あまり吹かれおり  越智みよ子

農村部に住んでいる私は、樹木から下がっている蛇の抜け殻を何度も見たことがあります。初めは何かわからないことが多く、近づいて正体を知ったときはどきりとします。きっと、みよ子さんもそうだったでしょう。「六尺あまり」といえば、もはや連句の題材の一つ「妖」の世界ですね。掲句は、この「六尺あまり」でぐっと世界が広がりました。