俳句随想

髙尾秀四郎

第 93 回  与謝蕪村の俳句

夏河を越すうれしさよ手に草履 蕪村

これまでの俳句随想において特定の俳人の俳句について言及してきました。松尾芭蕉に関してはかなりの章に亘って触れましたし、小林一茶、正岡子規そして宇咲冬男先生の他、山口誓子、鈴木眞砂女、小津安二郎、夏目漱石、三橋鷹女、寺田寅彦、寺山修司、江國滋酔郎、又吉直樹などの俳句についても触れてきました。これからしばらくはすでに触れた上記以外で気になる俳人の俳句について書いてみようと思います。

手始めに冒頭の句を詠み、明治期に至って正岡子規が連句の発句を切り出して「俳句」と命名し「俳句は文学である。」として紹介する際に、芭蕉に対比させる形で紹介した与謝蕪村について述べることとします。

まずは正岡子規に倣って芭蕉の生きた時代と蕪村の生きた時代との比較をしてみます。芭蕉は寛永21年(1644年)に現在の三重県伊賀市に生まれ、元禄7年10月12日(1694年11月28日)に亡くなっています。一方、蕪村は享保元年(1716年)現在の大阪市都島区に生まれて、天明3年12月25日(1784年1月17日)に68歳で亡くなっています。蕪村は芭蕉の100年後に活躍した人と言えます。そして蕪村自身は芭蕉に私淑し、芭蕉の俳諧を生涯敬っていました。但し、蕪村は存命中俳諧よりも絵の方で名をなして認められていたようで、絵師としての名声が高かったようです。また絵と俳句を組み合わせた「俳画」という新たな分野を切り開いたパイオニアでもありました。

芭蕉の100年後に世に出た蕪村について、正岡子規はその著書「俳人蕪村」において蕪村の句を芭蕉の句と対比させながら、積極的美、客観的美、人事的美、複雑的美、精細的美、用語、句法、口調、文法、材料、縁語及譬喩、時代、履歴性向等と様々な角度から多面的に比較対象を行っています。その中で芭蕉を陰(消極的)とすれば蕪村は陽(積極的)。季節で言えば芭蕉は秋と冬、蕪村は春と夏をより多く詠んでいると分析しています。事実、詠んだ句の数は芭蕉の方が秋、冬のものが多く、蕪村は春、夏を多く詠んでいます。このような比較を通じて、子規は俳諧において猫も杓子も芭蕉を無批判に俳聖として崇め奉っている一方で、蕪村に対してはほとんど評価していないことに不満を表明し、むしろ蕪村は芭蕉と並び称されるべき存在であり、それだけの価値ある句を詠んでいると断じています。但し、子規が蕪村の句を取り上げて、芭蕉に匹敵するかそれ以上であると評価する理由は、むしろ彼が当時進めていた俳諧の革新、連句の発句を切り出して「俳句」として、その俳句を文学とする根拠としたように思われて仕方がありません。子規は当時、西洋の文芸でリアリズムが興隆期を迎え、その手法である写実主義、客観写生を俳諧の世界に持ち込み、客観写生こそが俳句のあるべき姿であるという主張を展開していました。そしてその根拠として芭蕉と蕪村の比較論を持ち出しています。この点について、小西甚一氏は俳句の世界」の中で「(写実の)手本を蕪村に求めたのは、当時としては止むをえぬことながら、残念な誤解であった。」とまで書かれています。そしてこの流れは子規以降の子規の流れを汲む人たちに継承されてゆきました。

このような子規をはじめとする人々による蕪村に対する客観写生賛歌に異を唱えたのが詩人の萩原朔太郎でした。その著書「郷愁の詩人 与謝蕪村」の冒頭において「著者は専門の俳人ではない。しかし元来「詩」というものは、和歌も俳句も新体詩も、すべて皆ポエジー(詩情)の本質において同じであるから、一方の詩人は必ず一方の詩を理解し得べきはずであり、原則的には「専門」ということはないはずである。」と言い切っています。そして俳句は抒情詩であると考えていることを表明した上で蕪村の俳句をポエジーの視点からも評価し、芭蕉と蕪村の対比を「客観写生や叙景対主観的抒情」という薄っぺらな対比にとどめるべきではないと主張しています。その上で蕪村の句を春夏秋冬に分けて、春の句36句、夏の句22句、秋の句15句そして冬の句19句について評しています。しかしそこには子規が客観写生のお手本のような句であると評した、例えば「さみだれや大河の前に家二軒」のような即座にその情景が目に浮かぶような、絵画を思わせる句は収められていません。それは朔太郎が蕪村を客観写生に優れた俳人に留まる存在ではなかったと思った証左かと推測されます。このような視点から、蕪村が最も多くの句を残し、高い評価を受けている春の部からいくつか拾ってみます。

 遅き日のつもりて遠き昔かな
 春雨や小磯の小貝濡るほど
 春風や堤長うして家遠し
 菜の花や昼ひとしきり海の音
 骨拾ふ人に親しき菫かな
 白梅に明ける夜ばかりとなりにけり
 行く春やおもたき琵琶の抱きごころ

これらの句には確かに写実に加え蕪村の主観に裏打ちされたポエジー(詩情)があると感じられます。

三好達治の「雪」という詩「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」は蕪村の描いた絵「夜色楼台雪万家図」から詩想を得たと言われています。蕪村は三好達治という現代の詩人をして詩を詠ませる絵を描くほどの審美眼と画力を持った人であったようです。そのような人の詠む俳句だからこそ絵のような景を想像させ郷愁を掻き立てられるのだと思います。

さて、冒頭の句に戻ります。蕪村が得意とする「春と夏」の夏の句です。この句は子規の「俳人芭蕉」では精細美の項で取り上げられていますが、朔太郎の「夏の部」には含まれていません。川を、草履を脱いで手に持ちながら喜々として渡る姿が鮮明に浮かびます。明るい陽射しと川音を耳にしながら川を渡る心地よさと解放感、思わずこぼれる笑みさえも見える句です。画家としての確かな目で見た景の描写と湧き上がるような嬉しさが滲んでいます。