俳句随想

髙尾秀四郎

第 87 回  人工知能と俳句

木漏れ日や初夏の匂いに誘われて

冒頭の句は会話型人工知能(AI)のChat GPTに「夏の季語で一句詠んでください。」と入力して得られた句です。但し、最初にこのAIが出してきた句は「木漏れ日や初夏の匂い漂う」でした。そこで、私から「この句では中七も下五も字足らずで問題ありですね。」と入力した結果、AIが改めて出してきた句が冒頭の句になります。

人間の記憶力や知識の関連付けには限界があり、更に年齢とともに退化もします。そこで人間に代わって知識や情報を蓄積しその活用を図ろうという動きが始まり、AIという言葉が20世紀後半から生まれ、その機能は日々進化しています。このAIが更に進化し、Chat GPT(平たく言えば「対話型の学習済み回答生成AI」)というアプリを米国のベンチャー企業が開発し、企業側はまだ未完成の段階にあるとの認識の下、現在この機能アップのために、誰でも自由に無料で使えます。このアプリに対して別の質問として「現在進行中のロシアによるウクライナ侵攻の今後の行方はどうなりますか?」とか「2025年の7月に日本で東南海地震が発生するという予測が囁かれていますが、どうなるのでしょうか?」という質問をしたところ、「将来の事であり様々な要因によって推測は困難なので、今後の各国の動向や情報を注視してください。このような将来のことについてはお答えできません。」という主旨の返事が返ってきました。そもそもこのアプリの最初の画面にLimitations(限界)というタイトルで、

①間違った答えを出す可能性があること。②回答間で矛盾する回答を出す可能性があること。③2021年以降の出来事や世界に関する知識は限定的であること。という断り書きがあります。要するに、すでに起こったこと、発表された著述や記事がベースであって、それらに基づく予測や予言は担当しないということのようです。

私が国家試験の勉強をしていた頃、簿記論、原価計算論という科目に関しては計算問題があるため、かつては算盤を使って解答していましたが、私が合格する頃には電卓の使用が認められるようになり、算盤は姿を消していました。しかしそのことによって、いままで算盤を使う前提となっていた暗算力が大幅に落ちました。それはパソコンのワープロソフトの普及で、漢字を手書きで書けなくなったことに似ていると思います。AIの普及も間違いなく今まで当然のことのように行ってきた、思考する、記憶を辿る、という作業が無くなることで、そのような作業を行う機会が減り、頭の中でその機能を担っていた器官の退化が起こることは容易に想像できます。生活の中においての電気掃除機や電気洗濯機の普及で減った掃除・洗濯の時間を別の用途に使えるようになったように、AIの活用で大幅に節約できた時間を別の価値ある用途に使えば良いのですが、その節約できた時間をTVやゲームに費やすようであれば確実に人間の能力は退化し堕落するのではないかと危惧しています。

一方、AIの利用に言及すれば、囲碁や将棋の世界において、トップ棋士達はAIがすでに手放せない技術向上のツールになっているようです。

では俳句という分野に関して、AIはどう使うべきでしょうか?私は次のように使うならば、かなり有用なのではないかと思っています。

1.詠みたい俳句の類想句の探索をする。

2.詠みたい季語について過去の俳人が詠んだ名句を調べる

そして私が最も使いたいと思っている用途は、

3.自分で詠んだ句の批評を仰ぐ。

つまり、AIを上級者、知識豊富な友人として利用することです。

他方、使うべきではないこととしては、AIに作らせた句や論評を自分のものとして発表することです。それは創作の正反対の極にあるものであり、盗作にもなります。

さて、ここでChatGPTの力がいかほどのものかを示すサンプルとして、私が詠んだ句の鑑賞をして貰った結果をご紹介します。1995年の秋に詠んだ「木の実落つ大地は釈迦の手となりて」という句の鑑賞をAIに依頼した結果、即座に出してきた回答は次の通りでありAIが出してきた文章をそのまま転記します。

『「木の実落つ大地は釈迦の手となりて」という俳句は、自然の営みと人間の存在の関係を表現しています。この俳句は、俳句の美しさと深さを象徴的に捉えており、講評する価値があります。まず、「木の実落つ大地」というフレーズは、自然の季節の移り変わりを描写しています。木の実が地に落ちる光景は、秋の訪れや時間の経過を感じさせます。この描写によって、俳句の情景が鮮明に浮かび上がります。そして、「大地は釈迦の手となりて」という表現は、大地が釈迦(仏陀)の手のように働いていることを示しています。この比喩は、大地がすべての生命を支え、育む存在であることを示唆しています。釈迦は仏教の教えによれば、慈悲と智慧を具現化した存在であり、大地がそのような存在の手になぞらえられることで、その尊さや奇跡的な働きを表現しています。この俳句は、自然の営みと仏教的な思想を結びつけることで、人間の存在と自然との一体感を表現しています。木の実の落ちる様子は自然の循環や命の移り変わりを象徴し、大地が釈迦の手となることで、自然の摂理や善意によって人間が支えられていることを表現しています。この俳句は、自然の美しさと人間の謙虚さ、そして自然との共生の重要性を思い起こさせる響きを持っています。作者は、人間と自然の結びつきを深く感じ、その奇跡的な関係を詠んでいます。読者はこの俳句を通じて、自然とのつながりを再確認し、その尊さと謙虚さを感じ取ることができるでしょう。』

いささか面映ゆいような講評ですが、文章の構成、論理性、日本語の使い方等、一定のレベルに達した内容であると思いました。「AI侮るべからず。」です。自らが詠んだ句の良き批評家としてAIを活用する余地は大いにあると思いました。そんなAIは今後更に進化することでしょう。それだけにAIが出来ないこと、即ち、自らが動いて森羅万象を体験すること、五感を働かせること、人を愛すること、そこから生まれる情感を表現すること等を更に磨くべきと強く思いました。