俳句随想

髙尾秀四郎

第 80 回  型があっての型破り

父となる日を待てば空の梅の白 冬男 冬男

冬男師の句で上五の字余りはかなりありますし、下五の字余りも多少あります。しかし中七の字余りの句は流石に皆無に等しいです。但し意識して探してみると無いわけではなく、冒頭の句はようやく探し出したその珍しい中七字余りの句になります。許される字余りは上五と下五であり、中七の字余りはネット句会においても、私が選者となるあした俳句道場の選においても、「絶対」という形容詞を頭に付けて禁じています。それは読み下した時にリズムが整わず、腹落ちしないからです。しかし、冒頭の句はその禁ずべき中七の字余りになっています。但し、もしこの句の中七を字余りにしないために「空」の次に来る「の」を外したとするならば、この句は三段切れとなり、句として成立しないことになりかねません。それを回避するギリギリの選択肢が中七を字余りにして「の」を入れた措置であったかと推察されます。今回はこの「字余り」「字足らず」を含めた「型破り」について述べたいと思います。

俳句同人誌あしたのホームページには「ネット句会」のコーナーが有り、私が宗匠となって運営しております。2022年2月18日に締切った兼題「寒明け」では130句が投稿され予選67句、入選55、秀逸8句で、全ての句について論評を書きました。この「ネット句会」の過去の回で次のような質問をいただいたことがありました。そのご質問と私からの回答を併せて紹介させていただきます。

(投稿者からの質問)

秀逸を頂き有難うございました。予選40 三段切れのご指摘拝受です。「雪の音警策の音永平寺」阿波野青畝 これは三段切れと思いますが?許される場合とそうでない場合のご教授お願いします。 ○○ 拝

(宗匠(秀四郎)からの回答)

○○さんから阿波野青畝の句を引用して、三段切れであるが、何故許されるかという主旨のご質問をいただきました。次回の講評の中でご説明しても良かったのですが、少し先になりますので、ここで説明させていただきます。

今回引用された青畝の句に限らずルール違反の名句は沢山あります。

「降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男」
(二段切れ)

「目には青葉山ホトトギス初鰹 素堂」
(季語3つで三段切れ)>/p>

彼らはその違反を知った上で、敢えてルールを犯しています。それでも良い句になると確信していたのでしょう。しかし初心者は、まずルールを守った作句を重ね、やがてそれを打ち破る冒険をすべきです。「守破離」の精神です。当ネット句会は基本的に初心者の方が多い句会という認識の下、ルール違反を認めておりません。その方がその後の成長につながると思うからです。ご了解のほどよろしくお願いいたします。

このご質問は「切れ」についてでしたが、俳句にはそれ以外にも季語、定型、文法、表現自体の巧拙等様々な問題があり、それらの総合的判断の結果として選ばれたり選ばれなかったりします。俳句は俳句としての基本を守っているか否かの他にも、読み手にとっての読み易さや字面の美しさ、読んだ時の音感等様々な観点から評価が下されます。

宗匠(秀四郎)からの回答の中にもありましたが、芸道の基本として世阿弥が著した「風姿花伝」の中の「序破急」を下敷きに、千利休が、その後唱えた「守破離」という言葉があり、以前の「随想」の中でも述べましたものを再掲させていただきます。 「守破離」とは、「守」が、師匠や先達の技をひたすら真似ること。そもそも「学ぶ」の語源が「まねぶ」であるので至極当然のことです。真似て学んで基本をマスターした後は、それを打「破」して一歩先に進み、自分なりの工夫をします。そしてそれが成功して初めて師匠や先達とは異なった、自分なりのオリジナリティを築くことができ、「離」が出来る、という学びのステップを指しています。

ここで改めて俳句における「型」について考えてみます。まずは「5―7―5の音律」があります。次にネット句会でも取り上げた「切れ」があります。そして「季語」を含むべきとする「有季」があります。

これまでの俳句随想において、「切れ」や「季語」に付いては何度か説明してきましたので、今回は「5―7―5の音律」について触れてみたいと思います。

2022年の国民文化祭の開催県は沖縄であり、「連句の祭典」は南城市という那覇からバスで南に1時間ほどの所で開催されます。南城市はその名の中に城(グスク)が入っていることからも沖縄に残っている城跡の約半分がそこに集中するため、沖縄人にとっては心の故郷のような地であると伺っています。この沖縄の詩歌には「5―7―5の音律」に代わって「8―8―8―6の音律」による「琉歌」があり、コンテストも開かれていて、三さんしん線を爪弾いて歌われてもいます。一方、音楽の世界には8音でリズムを作るエイトビートがあります。4音の音節を重ねて8音にすることでリズミカルに連なる8音は、スムーズで、これを繰り返しても(演奏しても)ぎくしゃくしません。沖縄の琉歌はこのエイトビートを基本としているようです。そして実は俳句の「5―7―5」もこの8音と無縁ではありません。「5―7―5」の方は5音の後に3拍置いて、7音の後に1拍置き最後の5音の後もまた3拍置きます。しかし琉歌ははじめの3つの8音では一拍も置きませんが、最後の6音の後に2拍置きます。打音の2音2つの4音、その倍の8音が基本のようで、この音律のルーツは日本人のルーツにも関連しており、海の向こうから日本にたどり着く過程で船を漕ぐ時に歌った舟歌にその起源があるとも言われています。そんなDNAを持つ日本人にとって、このリズムは理屈なしに心に沁みるものなのでしょう。

この定型(5―7―5)を含めた「型」という基本を守ること、基本を外れても、その許容範囲を超えていない句であることが求められます。その許容範囲を超えない智慧や経験は沢山の作句や舌頭千遍の努力を通じて習熟し、その本質を理解してはじめて出来ることと言えます。それだけに基本を学び実践し自分のものとすることが重要なのだということが言えそうです。それゆえ「型があっての型破り」なのだと改めて思う次第です。