俳句随想

髙尾秀四郎

第 72 回  俳句における虚と実について

大いなる時の白さや鏡餅  冬男

冒頭の句は故・宇咲冬男師の新年の句であり、自注の言葉として「生家の習いそのままに、鏡餅は特別注文で大きい。月刊俳誌を出す年の前の前途と来し方への思いが重なって出来た作品。」と記されています。この句の中七の「時の白さや」の「時」即ち時間には本来、色はありません。しかし色のない「時」を白いと詠みなすことで、鏡餅という季語に込めた作者の思いが表現されます。

かつて句会の中で冬男師は「俳句は文学で創作の世界に遊ぶものであるから、虚を詠んでも良い。吟行に出て、その吟行で句を詠むのみならず、その後時間が経過した後でも、その吟行の景や抱いた感情を句にして良い。」と言われていました。そして次の言葉を遺されています。「俳句は虚と実の皮膜に生まれる文学。句は作句の青春性と虚実の世界に”遊ぶ“ 至芸である」と。前回の「俳句随想」では当会の俳句が目指す象徴性について触れました。そこで今回はそのことと極めて関係の深い「俳句における虚と実」について述べたいと思います。

このテーマについては古今の名人上手と言われた人たちが類似する様々な言葉を遺しています。日本のシェイクスピアと称される江戸期の戯曲作家・近松門左衛門は「芸は実と虚の境の微妙なところにあり、事実と虚構との微妙な境界に芸術の真実がある。」とする虚実皮膜論を展開し、虚うそとまこと実、虚構と事実は区別できないほどの微妙な違いであり、そこに芸術の真実があると述べています。

先年亡くなられた俳人・森澄雄氏は、蕉門十哲の一人、森川許きょりく六の編んだ「本朝文選」の中の芭蕉の言葉を引用して次のような発言をされています。『俳人は神仏を信じなくてもいいが、「虚」を信じなければ駄目だ。でないと巨おおきな世界が詠めない。今の俳人は最も大事な「虚」が詠めなくなった。「虚にゐて実を行ふべし」の名言を芭蕉は残したが、詩の真実としては、「実」よりも「虚」のほうが巨おおきい。芭蕉の多くの句は、空想句つまり「虚」である。子規、虚子の言う写実ではない。しかし、虚でありながら実以上の「詩の真実」を見出したのだ。』(「詩の真実 俳句実作作法」角川選書)

これらの言葉から伺えることは、俳句の実作において事実の延長線でのみ句を捻っても自ずと限界があること、虚の世界から現実を見、虚の世界から現実を表現することで世界が広がり人に感動を与える句が生まれるということを述べておられるようです。

ここで冒頭の冬男師の句に戻ってみます。時間は人間の五感で捉えられない唯一の対象であり色も形もありません。その時を白いと虚の表現をすることで、作者の時に対する思いや、意味、価値が窺えることになります。芭蕉が加賀の那谷寺で詠んだ「石山の石より白し秋の風」の風の色も同じ虚の表現です。このような表現は写実や事実からの延長では生まれません。

過去の「随想」の中で取り上げさせていただいた、鴛鴦の仲の夫君を持つ貞淑な三橋鷹女が詠んだ衝撃的な恋の句「鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし」も虚の句であったと思います。虚であるからこそ、栅しがらみのない発想で大きな句となったのだと思うのです。

目を映画に転じてみましょう。そこにもまた「虚実の皮膜」から生まれた名作群があります。サスペンス映画の巨匠、アルフレッド・ヒッチコック監督が駆け出しの頃、気負って芸術性の高い作品を目指して作った映画を、観客の一人として劇場に見に行った折、映画が終わって観客が映画館から出てくる表情は誰も暗く、笑い声など聞こえなかったそうです。その理由は、芸術性を追い求めたその映画の終わりがアンハッピーエンドであったからということに気づきます。それ以来、彼はどんな紆余曲折や悲劇的な出来事を描いても最後は必ずハッピーエンドとしたそうです。以降彼の名声は高まりサスペンス映画の世界的巨匠になります。

これに似た話として山田洋次監督と俳優の渥美清さんとの間で交わされたとする会話があります。山田洋次監督も駆け出しの頃、倍賞千恵子の「下町の太陽」という一世を風靡した流行歌の映画化で監督に抜擢され、この映画を労働者階級の貧しさと世の矛盾を衝いたプロレタリア映画として世に問います。しかし賠償千恵子の歌を聞いて下町の太陽として健気に生きる乙女の姿を期待していた観客は失望し、興行は惨憺たる結果に終わります。後年、山田監督は渥美清さんを主人公とした「男はつらいよ」の監督となり、渥美清さんと話す機会を得ます。その時に渥美さんは次のように語ったそうです。「村芝居のお客さんたちは出し物が例えば「瞼の母」としたなら、どこでどんな科白が出るか、どんな筋書かを知った上で来るんです。そして決まったところで笑い、決まったところで泣くんです。それが楽しいんです。演じる方もそれを分かっていて、そのツボを抑えて芸を磨くんです。芸ってのはそういうもんで、相手があって磨かれるし、見る方もそれが分かって見に来るんです。」 山田監督の「男はつらいよ」はその後、ギネスに記録される超のつく連続回数を誇る国民的映画となります。

これらもまた大衆芸能における「虚と実の皮膜」に該当するのではないかと思います。映画のみならず、同じことが東洲斎写楽の大首絵や葛飾北斎の神奈川沖浪裏の絵にも言えるのではないかと思います。

俳句に戻りますが、必ずしも事実だけを詠む必要はありませんし、それでは詠む内容が限られます。俳句は17音という世界最短詩形で森羅万象を詠む文芸ですが、その森羅万象に虚と実が加わることになれば、もはや詠めないものはないといえるのではないでしょうか。逆説的に言うならば、森羅万象の虚も実も詠むためには、思い切った省略、切れ、対比、擬人化等の手法を用いた象徴性の高いものにならざるを得ないと言えるのではないでしょうか。言い換えれば、象徴性の高い俳句は良い句の必然であり、象徴性は句が当然にして備えなければならない要件なのだと思うのです。

シェイクスピアに次の言葉があります。「この世は舞台、人は役者」そうであるならば、虚に遊び、虚と実の皮膜に迫って、なりたいもの、あるべきものを演じる句を捻りたいものです。

「虚と実」の虚もまた実か初笑い 秀四郎