俳句随想

髙尾秀四郎

第 71 回  あした創立40周年記念号を読み直して

俳誌の名「あした」と定め年立ちぬ 冬男

冒頭の句は昭和50年、43歳の冬男師が零雨先生の許しを得て俳句結社を創立し、その俳句誌の名前を「あした」と決めた年初に詠まれた句であり、不安と希望がない混ぜになった状況の中での固い決意と気勢が感じられます。この句の自註の言葉の最後に「美しい日本語を思った。」と記されています。

生きるためには過去に拘ることなく移りゆく環境に合わせて柔軟に対応することが必要です。そうしなければ滅びることになることはダーウィンの「種の起源」を引用するまでもありません。しかし一方で「温故知新」という言葉もあり、過去の歴史から今を見直し、未来までも予見することは大切なことであるとも思います。

人も、人が集まった組織も、その組織が属する社会も、節目節目で過去を振り返るイベントを設けてきました。生まれた子供のお宮参りや七五三、成人式。年齢に応じた還暦、古希、喜寿、傘寿等。結婚式の後の10年目、銀婚式、金婚式。亡くなった人の葬式の後の一周忌、三回忌等の回忌。組織では学校の入学式や卒業式、会社の入社式や退職(退任)セレモニー等、社会で言えば建国記念日や文化の日。世界○○デー等。そんなイベントにおいては、そこに至る道のりを振り返り、これからの抱負を語ることになります。日々過去ばかりを振り返って生きることは後退であり、やがては取り残され忘れ去られることとなりますが、一切過去を振り返らない生き方もまた学習や反省のない薄っぺらな生き方となり味わいのない人生になると思います。

かく言う俳句同人誌あしたの前身、俳句結社あしたにも様々なイベントがありました。そんな過去の歴史が一冊に凝縮されたものがあした創立40周年記念号であると言えます。通常は40ページ前後の冊子が、この記念号では370ページにも及び、単行本を超えるような大部となりました。

俳句同人誌あしたとして第二の創刊をスタートさせた時、冬男師は、過去のことは全てこの一冊に遺したと言われました。今、俳句同人誌あしたが創刊から10年を越え、編集体制の変更等を進めている節目において、ひととき歩を休め、過去を振り返ることも、あながち意味のないことではないと考え、しばし過去を振り返りたいと思います。

この冊子の中には暉峻康隆先生の論文「芭蕉と西行」や冬男師の「芭蕉ほとけの道」、海外吟行の記録、著名人の講演録、同人それぞれにとっての「あした」の存在を記した寄稿、あしたの歴史年表やマスコミの論評等がぎっしりと詰まっています。

私自身、この創立から40年の時点でその半分に関与させていただき、しかもその20年が全くの初心者からのスタートであったことから、その思い入れは一入であり、記憶の溝も相当に深いものとなっています。

数多くの海外吟行についても、私の岳父が団長となって出かけた中国の吟行旅行、私もメンバーの一人として参加したドイツでの句碑建立と北欧への旅、韓国のスエーデン大使館でのレセプションと百済路・新羅路の仏教遺跡を巡る吟行の旅等、思い出は尽きません。

ビジネス文書には「Summary to detail」という作法があると過去の章で書きました。そしてSummaryは俳句でありDetailは小説や随筆などの散文と言えます。
俳句結社あしたの40周年特集号に刻まれた軌跡をSummaryすれば次の6句に集約できるのではないかと思っています。

妻かなし噛みゆけばある梨の芯

ゆけどゆけど大虹のしたぬけきれず

乾坤の一滴となり裸なり

逃げ水の果て敦煌のありにけり

薔薇は実に人生き生きと薔薇の町

年新た海のひろみち巡らんと

冬男師が記者生活の中、その断片を句に残された時期、結社を創設し俳人として世に出られた時期、仏門のルーツを辿ったインドや中国への旅、国際俳人として認められ、世界で俳句や連句を語られた時期。そして俳句と一線を置いて散文へ目を転じられた時期。

俳句結社あした創立以前の時期を含め、この記念号に至る歴史は、象徴性の高い一級のSummaryであるこの6句によってその時代と会の状況を余す所なく表現されているように思っています。。そして、そのどの時期、時代にも通底しているものが「抒情から象徴の高みへ」というテーマであったように思います。それはまた今も生きていて進化をさせなければならないテーマであり、第二の創刊の時に掲げた看板でもあります。

ここで私から、このテーマを今後の俳句同人誌あしたの柱であることを再認識するための提案とお願いをさせていただきます。これまでの「私の一句」は第二の創刊以前の句が多数を占めていたように思います。今後は、それぞれが同人として、第二の創刊以降の作句活動を総括するような「私の一句」として来年の1、2月号から掲載することを提案させていただき、第1回は提案をさせていただいた私が担当しようと思います。その次は順子さん、艶子さんの順とし、それ以降は追ってお知らせしたいと思っております。是非ご賛同いただき、とっておきの「私の一句」をご掲載ください。

さて、明治学院大学の校歌の作詞は第1回卒業生の島崎藤村によるものとのことです。かつて、私と同じ大学を受験したものの叶わず、その後この大学に入った同級生から届いた手紙に、この校歌の一節が引用されていました。「霄(そら)あらば霄(そら)を窮めむ壌(つち)あらば壌(つち)にも活きむ」与えられた環境でベストを尽くそうという主旨のこの一節は、これから様々な変化の中で生きなければならない私達が心すべき在り方を示しているように思います。

俳句同人誌あしたにも今後、様々な変化の波が押し寄せることと思いますが、その状況に合わせてベストを尽くす他ないと思います。そうすることで世間から好意的な眼差しで見てもらえるでしょうし、神様にもきっと微笑んでいただけるのではないかと思います。そんなことを思いながら、ほんのひととき昔を振り返る章を設けさせていただきました。

振り向けば過去まざまざと冬ぬくし 秀四郎