俳句随想

髙尾秀四郎

第 67 回  生と死を詠む俳句


戒名は真砂女でよろし紫木蓮  鈴木真砂女

冒頭の句は鈴木真砂女の最後の句集となった「紫木蓮」の中に収められた一句であり、真砂女さんらしい死を達観視した句です。仏教用語に「四苦」があります。人間の苦悩の原因を挙げた「生老病死」を指します。これに、愛する者と別れる苦しみ「愛別離苦」 、怨み憎しむ者に会う苦しみ「怨憎会苦」 、欲しいものを手に入れることができない苦しみ「求不得苦」 、人間の身心を形成する物質的、精神的現象から苦しみが盛んになること「五陰盛苦」 の4つの苦しみを加えて「八苦」と言うようです。つまり人間にとって「生」も「死」も同様に苦しみとして捉えられています。今回はこの「生」と「死」という隣合わせの事象についての考察とこれをテーマにした俳句について述べたいと思います。

米国イェール大学のシェリー・クーガン教授の名物講義「死について」は哲学的観点から「死」についての考察がなされています。一般には死んでも魂は存在し続けると考えている人が大多数で、小説でも詩歌の世界でもその前提で書かれ、詠まれています。これを、この教授は「二元論」と呼び、一方で、考えること、創造すること、感じることなどは脳という器官が果たす機能に過ぎず、その機能も死という身体の滅失をもって一巻の終わりとなり完全に終わりを迎える、従って死とは全てが消滅することであると考え、身体と魂が別に存在することを否定する「物質主義」があると述べています。そしてこの教授は、物質主義を支持する立場から、この講義を進めています。死とは何か、生とは何か、自殺の意味すること等様々な視点から、この論を検証しています。この本を読む前までは私も当然にして二元論を信じていたのですが、読後、物質主義の正しさを認めざるをえなくなりました。

この本とは全く視点も立場も異なる「神様は小学5年生」という本を、たまたま電車広告で見つけ、ネットで注文して読みました。この本は出産の前の胎児の時からの記憶を持つ少女が述べた本で、その母親も同様の記憶を持つことから娘の言うことが良く分かるそうで、神様の存在、あの世とこの世のこと、物言わぬ赤ちゃんが何を考えているのか等が書かれています。クーガン教授の本が4百ぺージ近い大書で、文字も細かく内容もそれなりの重さを持っているのに対し、「神様は小学5年生」の方は本のサイズが一回り小さく、絵が入っていて文字は大きく、仮名が多くて小学5年生のすみれちゃんの語る口語文のために読みやすく、分量は多分クーガン教授の本の10分の1程度しかないと思います。但し話が断片的で表現が幼いため、かなりの推測をしなければなりません。この本の中の、人が生まれてくる時と死ぬ時に関しては大要次のように書かれています。魂は何度も生まれ変わること。但し今の世に生きることは一度だけなので悔いのないように生きなければならないこと。生がスタートで死がゴールなので、生きている限り新たなゴールを目指すべきこと。そして一つ驚いたことは、お釈迦さまが、幸せな人生を歩む6つの道である「六度万行(ろくどまんぎょう)」の一番目「布施」で、最高のお布施は「和言愛語(わげんあいご)」と説かれていますが、この本にも、笑顔が幸せを呼び、その笑顔がまた他の人を幸せにするという趣旨のことが述べられていることでした。小学五年生の女の子はやはり神様のお使いなのかも知れないと思いました。

子供の頃の思いないし精神は、年齢と共に成長し、逞しくも図々しくもなり、やがては老成してゆきます。認知症になればその精神も病むことになります。「精神は死んだ時点で、かつて最も輝いていた状態に戻って、その戻った状態のまま、死後の世界でも生き続ける。」という言い伝えがあるようですが、そんなに都合良くいくとはとても思えませんし、論理的でもありません。これに比べて物理主義の「死は即ち一巻の終わりで永遠に消滅する。」という説明は腹落ちします。従ってどちらかと言えば物質主義を信じざるを得ないというのが現時点での私の考えです。しかし物理主義論は論理的に理解できる反面、「身も蓋ない」とも思うのです。一方で、人間として、また俳人としても、月に兎が住んでいるという幻想を持ち続けたいと思うのと同様に、人の死後、魂は残っていて、黄泉の国に行けばまた会えると思いたいですし、そのような前提に基づいて俳句を詠みたいとも思います。

目を俳句に転じ、俳句の中で生や死がどう詠まれているかを見てみたいと思います。以下、多くの句を”戦後俳句を読む―テーマ「死」” という論考の中に掲載されていた句から拾いました。

新涼や「死んで貰う」と高倉健   楠本憲吉
花火の群れの幾人が死を考える  時実新子
萬緑や死は一弾を以て足る  上田五千石
ひとの死や薔薇くづれむとして堪ふる   稲垣きくの
生は死の痕跡吹くは春の風   永田耕衣
灰に帰しいまふくよかな母のこる   堀葦男
人が死にまた人が死に雪が降る   成田千空
死なば樹にならんと思ふ朧の夜   鷹羽狩行
死のうかと囁かれしは蛍の夜   鈴木真砂女
散る花をみな散らしめて君逝きぬ   宇咲冬男
生も死も同じことかよかたつむり   近藤梧郎

冬男師の句は先輩記者の自殺の報を受けて詠まれたものです。また最後の句は第28回の俳句随想「俳句と人生」でご紹介した叔父の句です。いずれの句にも共通することは、①当然ながら生きている人が、言い換えれば生の立場で、死と生の狭間を詠んでいること、②死んだ後もその魂は存在することを暗示させていることの2点です。冒頭の「死について」の講義で言うならば、クーガン教授が否定している二元論に基づいています。そして詩歌の世界はそれで良いとも思います。しかし多分、実際の死はきっと物質主義論のようになるのだろうとは思っています。それだからこそ今を精一杯生きなければならないのだとも…。

願わくば死は月光の花の夜に  秀四郎