俳句随想

髙尾秀四郎

第 55 回  小説家の詠む俳句


菫ほどな小さき人に生れたし  漱石

冒頭の句は夏目漱石の晩年の句です。上田五千石氏の言葉、『俳句は「いま」「ここ」「われ」の詩』とするならば、主として三人称で書く小説では表現しえない自分を遺憾なく表現できる俳句は、漱石にとって掛け替えのない存在であったのかも知れません。功成り名遂げた後の漱石のこの一句は心情の吐露であったのかと思います。

これまでも本随想の中でこの漱石や龍之介、犀星等著名な小説家の俳句を紹介してきましたが、それらはほんの一部に過ぎず、思いの外たくさんの小説家が俳句を詠んでいたことを「俳句もわが文学」という、俳人・村山古郷氏の三部作を読んで知りました。その中には小説と同等、いやそれ以上の思い入れをもって句作に没頭した人もいて、今まで知らなかった小説家や詩人、歌人達の俳句との関わり合いの深さを知ることとなりました。

言うまでもなく小説は数千ページに及ぶ長編から、冬男先生が記者生活の合間に書かれていた掌編小説までさまざまありますが、要するに散文です。しかし俳句は詩文であり韻文であるところが根本的に異なっています。そして小説がストーリーや情景、人の心の中などを詳らかに記述するのに対して、俳句は象徴的かつ大胆な省略をもって言い切ります。夏には冬が恋しくなるように、濃厚な食事が続いた後にはさっぱりしたお茶漬けが食べたくなるように、波乱万丈のドラマの後は爽やかなメロディーが嬉しいように、人は今無いもの、今まで続いてきたものとは異なったものを欲し、憧れます。小説家にとって、断定や省略によって「つまりこうです。」と言い切る俳句の清しさやある断片をもって全体を想像させる力、加えて心情の吐露もできる俳句に惹かれるのも分かるような気がします。ということで、今回は小説家の詠んだ俳句という視点から俳句を語りたいと思います。

村山氏の三部作には次のような文筆家の俳句が紹介されています。第一巻には尾崎紅葉、森鴎外、夏目漱石、芥川龍之介、寺田虎彦、北原白秋、永井荷風、室生犀星、谷崎潤一郎、久保田万太郎、内田百閒、三好達治、太宰治、吉川英治、尾崎士郎、吉屋信子、瀧井孝作、小島政二郎、永井龍男。第二巻には幸田露伴、二葉亭四迷、石川啄木、泉鏡花、坪内逍遥、中勘助、岡本綺堂、横光利一など。そして第三巻には徳田秋声、川端康成、佐藤春夫、尾崎一雄、吉井勇など等、中学生の頃に耽読した日本文学全集の作家一覧を見るようでした。しかも作品を通してしか知らなかった作家たちの生活や私的行動を追って、何故俳句を詠むようになったのか、どんな俳句の傾向を持っていたかなどが書かれていて、作家達の詠んだ俳句を介しながら彼等を立体化して見直せたような思いになりました。

村山氏によると文筆家が俳句と関わるパターンには次の3つがあるようです。 1.俳句から入り俳人となった後、随筆や小説の世界に踏み込む。 2.小説家や詩人でありながら並行して俳句も詠む。     3.小説家や詩人として大成した後、俳句を嗜む。 1.のパターンの例が夏目漱石、佐藤紅緑、瀧井孝作など。2.のパターンには尾崎紅葉、幸田露伴、芥川龍之介など。3.のパターンには坪内逍遥、吉田絃二郎などがいて、一番多いのが2.のパターンであるとか。

そして彼らの俳句観に関しては意見が二分しており、俳句を作家の基礎素養や文学入門の関所と考えたり、進んで本業や命を賭けるほどのものとまでいう人達がいる一方、あくまでも余技であるとする人達とに分かれるようです。前者には尾崎紅葉、夏目漱石が、後者には幸田露伴や森鴎外が分類されるそうです。俳句観の前者の捉え方についてビジネス文書の作法という観点から、大いにわが意を得たりという思いがありました。ビジネスにおいても様々な文書を作成します。例えば報告書、提案書、勧告書、推薦や推奨文、意見書など等です。それらを書く要諦は簡潔で要領を得た文章にすることです。ここでは句作で磨かれた省略力とも言うべき無駄をそぎ落とす力や短文における文法力が大いに生きることを実感しています。

また時代の推移と作家諸氏と俳句の距離について、むしろ明治期や大正期の方が関係は濃密であり、時代が進むにつれて希薄化が進んでいるのではないかという指摘をされています。なかなか気になるところではあります。

 もう一つ作家諸氏の詠む俳句の特徴ですが、村山氏の言によると、一部の例外はあるもののかれらの俳句は極めて伝統的で正統派の俳句であるそうです。かれらが俳句を十七文字の形式を有し、日本的な季節の詩であることを十分に理解しており、それ故に形を崩さず本来の良さを引き出すように作り、興味と愛着を持ち得るのだろうと言われています。むしろ専門の俳人達が痛々しい程言葉を虐使したり、小さな盃にビールを注ぐような愚かさや危険を冒してはいないだろうかと警鐘を鳴らしています。実に耳の痛い話ではあります。

さてここで、小説家の中でも群を抜いたレベルの俳人と言える、と村山氏が評されている龍之介と犀星の句の中から、私の趣味にて各三句を抽出してみます。 まずは龍之介の俳句から、

 明眸の見るもの沖の遠花火

 青蛙おのれもペンキ塗りたてか

 凩や目ざしに残る海のいろ

次に犀星の俳句から、

 身にしむやほろりとさめし庭の風

 鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな

 ゆきふるといひしばかりの人しずか

過去の随想の中で俳句とエッセイとの相性の良さを、犬と人間の関係に例えて書かせていただいたことがあったかと思いますが、俳句と散文ではなく俳句と小説家もまたなかなか捨てがたい良好な関係のようです。

句となせば言葉息する温む水  秀四郎