俳句随想

髙尾秀四郎

第 51 回  花火の句について


大花火藍の衣の匂いたつ   朝子

冒頭の句は俳句結社「あした」の物故会員で、長らくあした誌の表紙画をご提供いただいていた阿部六陽画伯の奥様であられた阿部朝子さんの句です。句会にはいつも和服でお越しになられる物静かな方でした。そんな朝子さんとの思い出の一つに、私があしたの会に入会して間もない春の一日、隅田川を船で上り、浮間の桜草を見に行く吟行会が挙げられます。その日の句会で朝子さんが特選を取られた句「桜草優しさばかりではなかり」は優美で物静かな朝子さんの中に揺るぎのない芯を持たれていることを垣間見た一句でした。

先日、日本連句協会のホームページに次のような質問が寄せられました。①「花火」という季語について、昔は秋の季語であったようですが連句でも秋として扱うのでしょうか?②季語はどうやって成立するのでしょうか?③クールビズやヒートテックなどを使う場合には雑の句とすべきでしょうか?の3点でした。担当者から、どうしたものかという打診がありましたので、暉峻康隆先生著の「季語辞典」の花火の項等を参照しながら大要次のような返信をさせていただきました。

『連句においては市販の「季寄せ」を用います。そこでは一部の例外を除いて花火は夏の季語であり、連句でも花火は夏としております。一方、新たな季語が生まれるスピードはかなり遅く、季語となり得る事象が発生して10年などは十分に掛ります。阪神淡路大震災の後に鎮魂の思いを込めて始まった「ルミナリエ」はやはり10年ほど経過して季語となりました。新たな季語となる言葉を一部の人が使い始め、やがて著名な俳人も使うようになり、名句が生まれて認知されるようになります。そして歳時記や季寄せの改訂の際に追加されてようやく季語の地位を確保するという具合です。今回の東日本大震災は6年が経過したところであり、震災による死者はその後も増え続けていますし、震災の傷もまだ癒えてはいません。そのような中にあって、「福島忌」、「原発忌」、「3・11」「東日本大震災」などの用法で季語化が試みられている段階であり、まだまだ季語として定まったと言える状況にはないと理解しております。また、クールビズやヒートテック(ユニクロの下着)などを季の句に使う場合には他の季語と併せて使う方が無難ですし、単独で使う場合には雑の句の中で用いる方が良いと考えます。』
その後、質問者から丁重なお礼のメールが届き一件落着とはなりましたが、一方で花火という季語について、本当に夏で良いのかと考え始めてもいました。

このことから今回は花火の句について述べたいと思います。花火は暉峻康隆先生の「季語辞典」他によると、京都の五山送り火と同時に盆供養として打ち上げられていたとされ、秋の季語であったようです。しかし江戸期に入り、隅田川の川開きの余興として花火が打ち上げられるようになり、それが日本中に広がって、その涼味も加わり夏の季語として扱われるようになったと書かれています。

古い流行歌「明治一代女」の2番に次のような歌詞があります。

「怨みますまいこの世のことは 仕掛け花火に似た命 もえて散る間に舞台が変わる まして女はなおさらに」
隅田川の畔で起きた実際の事件をヒントに川口松太郎が書いた物語を歌ったこの歌詞は、花火と人生の相似を巧みに表現していて見事です。花火の句にもまた花火に人生を重ねた句が数多あります。歳時記等から幾つか拾ってみます。

半生のわがこと了へぬ遠花火  三橋鷹女
遠き闇終の花火と知らで待つ  野澤節子
打ち上げし花火の下に幾山河  西本一都
花火ひらく亡き友の顔友の声  古賀まり子
手花火を命継ぐ如燃やすなり  石田波郷
手花火に女のいのち点るかよ  小久保咲子
汝が顔を浮かべ花火の開き閉ず  宇咲冬男

最後の2句は冬男師ご夫妻の句です。
花火を含む事象や出来事、人生にも明と暗、陰と陽があると思いますが、その明と暗、陰と陽を一瞬に見せる花火に、人生や様々な出来事の消長を重ねるのは当然のことかと思います。

花火大会の始まりと終わりという数時間の陰と陽、クライマックスとなる大花火の打ち上げ、夜空に花開く瞬間と消え落ちる時間、そのどれもが心躍り、楽しく、切なく、儚いものです。人生の陰と陽の繰り返しはもう少しゆっくりですが、花火はそれが凝縮されているゆえに、むしろ多くのことをその瞬間に思わせるのではないでしょうか。

花火を語る時、花火の第一人者を自認されていた方を抜きにしてはいけないと思っています。昨年亡くなられた佐々木彩女さんです。本誌の「凝ってます」のコーナーへ平成22年の7、8月号と9、10月号の2回に亘って彩女さんの「花火に寄せる想い」が掲載されています。多種多様な各地の花火の紹介と、いかに花火に熱を上げていたかを述べられると共に、エンディングの部分では、花火はもっと素直に楽しむべきものかも知れないが、一方で別の感慨もある、として「それは華やかな花火ショーの合間に私の脳裏に浮かぶ映像。戦意高揚のポスター、兵士の姿、高射砲の音、更に質素な手作りの洋服に下駄、全てにシンプルだった十代の私。それらが平和に浸りきっている現状に対してなんともいえぬ罪悪感のような、ほろ苦い憂愁となって澱の様に重く沈んでいくのをはっきりと意識してしまうのである。」と書かれています。彩女さんのみならず多くの方々が華やかな花火を見ながら、その瞬間にむしろそうではないことを思い浮かべるのではないかと思います。そして花火それ自体にも、見る人の心の中にも、その深い場所に鎮魂の意味や想いが潜んでいるように思えてなりません。それ故、花火はやはり秋の季語がふさわしいのかも知れないと思っています。本章の締めくくりは彩女さんの句集「彩」の中に収められた唯一の花火の句とさせていただきます。

儚さのいっそ際立つ大花火  彩女