俳句随想

髙尾秀四郎

第 49 回  小津安二郎と俳句


 砲声に崩れ落ちたる牡丹かな  安二郎

冒頭の句は昭和のモノクロ映画全盛の時代に巨匠と呼ばれた映画監督・小津安二郎が戦場から友人に宛てた手紙の中に含まれていた一句です。この手紙を作家の出久根達郎氏は額に入れて季節に合わせて絵画のように家で飾っているとか。

既にご存知の方もおられると思いますが、平成28年11月11日(中国では独身の日と呼ばれているようです。)の朝、出勤の駅頭で足を滑らせて足首を骨折し、入院と手術、その後のリハビリも含めると全治2か月と診断されました。「お足がない」とは江戸期の女房詞で、お金はあたかも足が生えたように行ったり来たりすることから、そう呼ばれていたようですが、掛値なしに実際の足が動かせない境遇に至って、その不便さをしみじみと味わうこととなりました。その結果、骨折する前に予約を済ませていた年末の沖縄旅行は私抜きの家族で行って貰い私は家にとどまることとしました。とどまっていてもその時期になればやるべき書斎の整理整頓、庭掃除、窓のガラス拭き、年用意の買い物などはできませんので、ひたすら本を読み、日記を綴り、体を休めることとしました。そしてその一環で、数年前に買ったままで観ていなかった小津安二郎作品集を観ることもできました。

小津安二郎は1903年12月12日に東京・深川の商家の次男として生まれ、その後、家系のルーツである伊勢・松坂に移り、旧制中学まで終えたあと旧制高等学校の受験に失敗し、小学校の代理教員になります。映画への愛着から、その後は撮影助手として松竹蒲田撮影所に入社し映画にのめり込んでゆきます。途中、召集を受け大陸の戦線に赴き、終戦の前に帰国。冒頭の句はその戦場での一句です。この句を含め、様々な資料の中に100句程の俳句が残っているとのことです。その後、蒲田撮影所から時代劇の部隊が全て京都に移り、蒲田は現代劇中心となって、やがて監督を任されるようになりヒット作を量産して行きます。

小津は二十代に俳句を始め、蕪村の句を好んだと言われていることからか、作品名には「早春」「彼岸花」「晩春」「麦秋」「秋日和」「秋刀魚の味」と季寄せからピックアップしたようなものが少なくありません。また短いセリフで多くを語らせ、思い切った省略を多用していて正に「俳句的」です。例えば「晩春」の中で少し行き遅れていた大学教授(笠智衆)の娘(原節子)が最後に結婚する場面では、花嫁衣裳を着て家を出るシーンまでで、結婚式の場面は大幅に省略され、式の後に教授が東京の馴染の寿司屋で親戚と会話する中で、式が終わったこと、新婚旅行には湯河原に行っていること等が語られて、幸せなエンディングとしています。また小津の名言には「なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う。」という芸術家らしい自負心に満ちたものがある一方で、「永遠に通じるものこそ常に新しい」という芭蕉の不易流行を思わせるようなものがあり、その作品が俳句的であることの証左のようにも思えます。

今回観た作品集には一部戦前のものもありましたが、多くは戦後間もない頃のものでした。映画のシーンには戦争の爪痕を覗かせるものが多く、また戦争が生活にも深く関わっていて、戦死の報やラジオの尋ね人コーナー等が会話の中に混じり、復員兵、引き上げ者、戦争未亡人、戦災孤児なども登場します。丸の内と思しきオフィスの中にはコートと共に帽子も掛けられるコート掛けが置かれてあり、女性のタイピストがいて、給仕という役割の人もいました。但し、オフィスには灰皿があり男性社員は当然のように喫煙しています。電話機は黒電話。家に帰れば壁に掛けられていて、声はラッパ状の収音機に向かって話しかけ、相手の声は筒状のものを耳に当てて聞くというスタイルで、電話がかかるとそこに小走りに行って通話します。中流家庭を描いたものが多かったからでしょうか、老若男女がしっかりと敬語、丁寧語、謙譲語を使い分け、美しい日本語を話していました。貧しい暮らしをしている人々も情が厚く、お互いを気遣い助け合う姿が随所にみられました。無論映画は虚構の世界であり現実ではありませんが、それらは小津の求めていた姿であり、間違いなく時代を色濃く反映しているものであったと思います。そして小津作品を見ながら、時代の変化の中、改まるもの進化するものが多くある一方、退化するものもあるのではないかとふと思いました。身近な例で言うならば、かつて計算する際に算盤を使っていて、それを電卓に代えたことで暗算の力が急激に落ちました。また文章をパソコンやスマホで作成するようになって、漢字が書けなくなりました。多分、現代の人たちは大変便利な機器や環境の中で、その便益に浴する一方、かつての面倒で手間の掛かる事務作業や家事に追われていた時には当然に持ち合わせていた心配りや人を思いやる気持ちが薄れたのではないでしょうか。それはやはり退化と言うべきものであると思います。同様に恥ずべきことや慎む気持ちまでも退化したとするならば、それは本質的に変わったと言わなければなりません。2011年の3.11の東北大震災の後、人が他の人を思いやる気持ちが増したように感じたのは、少し昔の状況に戻ったことと無関係ではなかったと思うのは考えすぎでしょうか。

人と人の間に相性があるように、映画監督と俳優との間にも相性があるようで、例えば黒澤明監督で言うならば三船敏郎や志村喬が挙げられます。小津安二郎について言えばやはり笠智衆と原節子だと思います。昭和期に生まれた女性の名前で「節子」という方がかなりおられます。その由来を聞くと大抵は原節子にたどり着きます。彼女は当時の憧れの女性像であったに違いありません。小津は1963年12月12日、奇しくも60歳の誕生日に逝去しています。その通夜に駆けつけた原節子と杉村春子は小津の自宅の三和土(たたき)で号泣したという記録が残っています。そして原節子はその日を境に女優を辞め一切の公式の場から姿を消します。彼女はそれまでの43年間の人生よりも長い48年の歳月を経た2015年9月5日に亡くなっています。小津と同じく生涯を独身で通しての最期でした。記録には原節子が小津を尊敬する師と慕っていたこと、俳優を滅多に褒めることのなかった小津も原節子のことを日本一の女優と評していたと書かれています。二人の間には子弟を超える感情があったのかも知れません。小津の次の一句をもって本稿の締めくくりとさせていただきます。

 口づけも夢のなかなり春の雨  安二郎