俳句随想

髙尾秀四郎

第 47 回  辞世の句について


旅に病んで夢は枯野をかけ廻めぐる

冒頭の句は芭蕉の辞世句と言われている一句です。芭蕉は元禄七年九月八日に伊賀上野から大坂に向かい、到着後すぐに病床に伏します。そして病没する十月十二日の4日前となる十月八日にこの句を詠んでいます。しかしその前書きに「病中吟」と書かれていたことから、この句をもって辞世の句とすべきか否かの議論が起こりました。この句の詠まれた翌日に当たる十月九日に弟子たちを集め推敲した句として「清滝や波に散込青松葉」があり、この句こそが辞世の句であるという説があります。枯野の句は前書きがあるように、病に伏した際に詠んだものであって死を意識して詠んだものではなく、むしろ清滝川に散り込む青松葉に自身をなぞらえて、その散り込む心意気を表現したこの句をもって辞世の句とすべきという主張です。しかし弟子の路通が元禄八年に著した『芭蕉翁行状記』の中で「平生則チ辞世なり」として、芭蕉が「日々辞世の気持ちで句を詠んでいる。」と言っていると書かれていることを思えば、病没した日に一番近い日に詠まれたことをもって辞世の句か否かを論ずること自体に意味が無いように思われます。芭蕉の生涯を概観し、その生きざまや求めたものを思えば、枯野の句はやはり一等の辞世の句と言って良いように思います。

年も押し詰まり年末が見えてくる霜月にもなると一年を振り返り、来し方行く末を思うこともしばしばです。「終活」や「エンディングノート」等という言葉があるように、あちらの世界に立ってこの世を思うという視点を持つこともあります。そこで今回は辞世の句に焦点を当ててみようと思いました。

 辞世という言葉には「この世に暇乞いをすること、死ぬこと」の他に「死に際して残す詩歌・言葉などを指す」という意味もあるようです。辞世として詠まれた詩歌で圧倒的に多いのは和歌(短歌)であり、俳句は少数派のようです。やはり死に際して思いの丈を述べるのには叙事、叙景のみならず感情までも述べることのできる三十一文字の和歌の方が適しているのかも知れません。

まずはこれはと思われる辞世の和歌からご紹介します。

つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを   在原業平

後の世も又後の世も廻めぐり会へ染む紫の雲の上まで   源 義経

花さへに世を浮き草になりにけり散るをおしめばさそふ山水   西行法師

宗鑑はいづこへ行くと人問はばちと用ありてあの世へといえ   山崎宗鑑

石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種子は尽くまじ   石川五右衛門

露と落ち露と消えにし我身かな難波の事も夢のまた夢   豊臣秀吉

ちりぬへき時しりてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ   細川ガラシャ

この世をばどりゃお暇に線香の煙とともに灰左様なら   十返舎一九

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめ置かれし大和魂   吉田松陰

天皇の御楯とちかふ真心はととめおかまし命死ぬとも   山本五十六

散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐   三島由紀夫

次は辞世の俳句です。詩形の特徴から、詠まれた時代も新しく、かつ省略や切れ字による詠嘆によって、どこか人生を達観したような響きが伺えます。

梅で飲む茶屋もあるべし死での山   大高源吾

人魂で行く気散じや夏野原   葛飾北斎

おもしろきなき人生をおもしろく   高杉晋作

痰一斗糸瓜の水も間に合わず   正岡子規

水洟や鼻の先だけ暮れ残る   芥川龍之介

どん栗の落ちるばかりぞ泣くな人   中 勘助

光りつつ秋空高く消えにけり   永井 隆

春風や次郎の夢はまだつづく   新田次郎

おい癌め飲みかわさうぜ秋の酒   江國滋

高杉晋作の句には季語がないので俳句とは言えないかと思いますが、この句を書きとめた枕辺の野村望東尼が見かねて、「住みなすものはこころなりけり」と下の句を付け、晋作が「面白いのう」と言ったという逸話が残っています。

 辞世にも天命を全うしたもの、病に倒れてこの世を惜しむもの、また平時ではない時代においては、強いられて辞世を迎えるものと様々です。そのような状況の中で詠まれた辞世は、長々と繰り言を述べるのではなく、短い韻文に万感を託し「つまり自分は…」「要するに自分の人生は…」「さてこの先は…」とこれまで続けてきた生き様に対して一呼吸おいて一気に詠んだ感があって、面白く興味深く、やがて悲しき響きがあります。振り返って「さて自分の場合は…」とも思わずにはいられません。三十一文字や十七文字に集約された人生。突き詰めれば、人生は三十一文字や十七文字に集約されると言えなくもないようです。

ところで、キリストの最後の晩餐に因んで、「最後の晩餐にあなたは何を選びますか?」という設問をしばしば目にし、耳にします。この回答は概ね二つに分かれるようです。今まで経験したことのないような、または経験した中で一番感激したものを選ぶ人と、極めて日常的で普段と変わらないものの、自分に一番馴染んだものを選ぶという人です。後者の例ではTKG(玉子掛けご飯)であったりします。この差は生まれ育った環境にもよるでしょうが、もう一つ死生観にも関係するように思います。農耕民族の日本やアジアでは死生観に「輪廻」があり、どこかに生まれ変わるという意識があって、辞世の句にも、また最後の晩餐にもそんな思いが反映されているように思います。

明日のことは分かりませんが、とりあえず今の時点で辞世の句を考えてみるのも一興かと思います。それによって過去についての新たな気付きや未来へのヒントが見つかるかも知れません。

辞世句は切れ字のひとつ年の夜   秀四郎