俳句随想

髙尾秀四郎

第 46 回  俳句と川柳について


その手代その下女昼はもの言わず  作者不詳

冒頭の句は江戸の古川柳です。現代に置きなおしてシナリオ風に表現すれば、「カメラはオフィスで働く人々の景から一人のイケメンの課長(手代)をズームで捉えます。次の瞬間には別のコーナーで忙しく書類を持ち運ぶ愛くるしい新人のOL(下女)に焦点を当てます。そしてその二人がよそよそしくすれ違う場面の後、一転して夜の逢瀬へ…。」と言ったところでしょうか。この川柳は私が連句の捌きを担当する時の「恋呼び」の説明の際にしばしば引用する一句でもあります。冬男師の請売りになりますが、恋呼びの要諦はまず人物を出すこと。特定の職業、風体、目を引く行動をする人等により、人物を特定すること、又は人が出会いやすい酒席、展示会、祭事、交差点、市場等の場を出すこと。その意味からも、冒頭の句は恋呼びとして秀逸であると思います。

ということで、今回は似て非なる川柳と俳句についてお話をしたいと思います。

まず俳句と川柳の違いについて一般論として申し上げれば、次の4点かと思います。
①季語の要否
②切れ字の要否
③表現語体(俳句は文語体、川柳は口語体)
④テーマ(俳句は自然、川柳は人事)

但し、右記はあくまでも一般論であり、現在の俳句の中には、季語も切れ字もなく、口語体のものもあります。また、川柳で俳句に寄った作風も現れ、その境界はあいまいになっているようです。今日、川柳と俳句の違いを定義づけるとすれば、形式ではなく、あくまでも対象の捉え方が風景から捉えるか、人を直接捉えるかという内容的違いによると考えるべきかも知れません。また俳句は「詠む」ものですが、川柳は「吐く」ものだそうです。

この事象の捉え方に着目して、復本一郎氏はその著書「俳句と川柳」の中で一茶の句と一茶の句を下敷きに吐かれた川柳を比較して大要次のように説明されています。

(俳句) 小林一茶
だいこ引きだいこで道を教えけり

(川柳)作者不詳
ひん抜いただいこで道を教えられ

「一茶の句はだいこ(大根)が季語で『教えけり』と詠嘆の切れ字が含まれている。そのような形式的な違い以上に、この句は農夫に道を聞いた場面において指ではなく引き抜いた大根で道を教えるという俳諧味のある景の句として詠まれている。一方、川柳は、農夫に『ひん抜いた』(という言葉通りに可笑しげに抜いた)大根で道を教えられた、と農夫と作者の間の出来事として吐かれている。」と

もう一つの違いとして川柳の大衆性が挙げられるかと思います。川柳の中興の祖と言われる江戸期の柄から井い川せんりゅう柳が始めて爆発的な人気を呼んだ「前句付け」は七七の前句への付け句を、投句料を徴収して受付け、高得点の句には景品が出されて、勝句刷(入選作品一覧)にも掲載されることから、最盛期と言われた明和四年(1767年)9月25日には二万三千三百四十八句の応募があったとのことで、そのフィーバーぶりが伺えます。幅広い世代からの支持を受けたようです。現代の川柳愛好者においても、その大衆性から俳句に比べて若い層の愛好者が多いというのも頷けます。

そんな川柳について、現代に戻り所謂「サラリーマン川柳」の過去の最優秀作品を並べてみます。さすがに人を直接捉える川柳だけに、時代を色濃く反映しているように思われます。

退職金もらった瞬間妻ドローン  元自衛官

皮下脂肪資源にできればノーベル賞   イソノ家

うちの嫁後ろ姿はフナッシー  段三っつ

いい夫婦今じゃどうでもいい夫婦   マッチ売りの老女

「宝くじ 当たれば辞める」が合言葉   事務員A

久しぶり~名が出ないままじゃあまたね~   シーゲ

仕分け人妻に比べりゃまだ甘い   北の揺人

羞恥心なくした妻はポーニョポニョ  オーマイガット

「空気読め」それより部下の気持ち読め   のりちゃん

脳年齢年金すでにもらえます   満33歳

昼食は妻がセレブで俺セルフ   一夢庵

オレオレに亭主と知りつつ電話切る   反抗妻

このように川柳には笑いやペーソスが溢れています。それ故、川柳が笑いの文学で俳句はそうではないと思っている方が多いように思われます。また川柳作家の中にもそのような意識を持っている方が多いと聞いています。しかしそのルーツが「俳諧の連歌」の発句と平句である限り、実は俳句にも笑いはDNAとして刷り込まれていると思うのです。そもそも連歌から「俳諧の」を冠して「俳諧の連歌」が生まれたことからも、俳句に俳諧味があることは否定できませんし、この点について芭蕉もその弟子達も明確に肯定しています。

このことに関連して「あした」の俳句について一言。私の句集に序文をお寄せいただいた山元志津香さん(俳誌八千草主宰)のお言葉を借用すると「あしたの俳句にも時にふっと肩の力が抜けるような面白みのある句があると良いですね。」はまさにこのことを指しているのではないかと思っています。十句の内に1、2句でも俳諧味のある句が含まれていれば、読者はまさに肩の力を抜いてほっとした思いをされるのではないでしょうか。

座の文学として俳句も連句もものするあしたの会であれば、前回の「俳句と短歌」の章でも述べましたように、短歌にも、また今回の川柳に対しても垣根を作らず、より良い表現をするために様々な表現形態を大いに学び、活用するという姿勢が大切かと思っている今日この頃です。