俳句随想

髙尾秀四郎

第 42 回  イスタンブールで俳句を語る

 

春風裡アドリア海は真珠色   冬男

 冒頭の句は平成17年(2007年)4月、世界一周の観光船、トパーズ号に乗った冬男先生がドブロブニク(クロアチア)で詠まれた句です。スエズ運河を渡り、ヨーロッパとアジアの接点にある地での句です。想像するに、冬男先生はアジアとヨーロッパが接し、シルクロードの要衝でオリエント急行の終着点でもあるイスタンブールに行きたいと思っておられたに違いありません。私はそのイスタンブールに平成27年(2015)10月2日から9日まで行ってきました。かの港町に立って、もしここに冬男先生とご一緒できたとするならば、歴史、文化、宗教等さまざまなお話ができ、俳諧論も交わせたのにと思わずにはいられませんでした。

 今回のイスタンブール行は日本とトルコ(土耳古)の協賛で開かれた絵と書の展覧会への参加と観光でした。そのきっかけは家内の日本画教室に入会を希望したトルコ人女性がいて、その通訳として見えた夫君のエルダル氏との出会いでした。彼は当時東海大学で日本史を教える教授で日本文化に大変造詣が深く、以後、トルコに戻るまでの間お互いの家を訪問し合い、帰国の年の夏には一緒に蛍見物もしました。そして密かに再会を約してもいました。その約束を果たしたのが今回の訪問になります。

 イスタンブールは昔コンスタンチノーブルと呼ばれ、東ローマ帝国の都でした。この町をオスマントルコが陥落させ東ローマ帝国を滅亡させたのは1453年です。オスマントルコがこの地を首都として帝国を築いたことは、その後ヨーロッパで花開いたルネッサンスや、世界の列強が大航海時代に入り、次々と新たな航路や新大陸の発見に結び付けたことと無関係ではありません。トルコ帝国は強大な軍事力のみならず文化、芸術、科学に力を注ぎ、高いレベルの成果を上げていました。ルネッサンスは、ヨーロッパの人たちによって成し遂げられたというよりも、トルコで高度に高められた数学、天文学、地学等がヨーロッパに伝播し、これをベースに開花された革命であったようです。また、シルクロードの交易の要所をトルコが押さえたことで、ヨーロッパの国々はインドの香辛料その他を求めてアフリカの喜望峰回りの航路を見つけ、インドへの航路のみならずアメリカ大陸の発見までに至るのです。

 一方、世界の三大料理と言えばフランス料理、中華料理そしてトルコ料理です。いずれも帝国の王侯貴族が国内外の食材を集め、味を極めた宮廷料理に端を発しています。イスタンブールの海峡を望むトプカピ宮殿跡には煙突の並んだ大きな料理棟があり、様々な料理が研究されていたようです。トプカピ宮殿にはまた迷路と思えるような入り組んだ作りのハーレムがあり、壁は防寒のためであったらしいモザイクのタイルで飾られていました。一方で、宮殿の敷地内には国中の英才を集めたエリート養成の学校もあって、ここから選ばれたたエリート達は当時の版図であった各地に赴任することになりますが、その際に、ハーレムの女性を妻とさせて赴任させたそうです。その意図は、ハーレム内での人脈を生かすことと妻達を通じた情報の獲得であったとのこと。624年も続いたトルコ帝国の考え抜かれた国家システムの一端を覗き見た思いがしました。

 トルコはまた極めて親日的な国としても知られています。そもそも日本とトルコが接触したのは近代に至ってからでした。

 1887年、小松宮彰仁親王がヨーロッパ訪問の途中でイスタンブールに立ち寄り、それに応える形で1890年、オスマン帝国スルタンの親善使節としてエルトゥールル号が日本へ派遣。使節は明治天皇への謁見の後帰国の途につきましたが、和歌山県沖で台風に巻き込まれ座礁沈没、特使を含め500名以上の乗組員が死亡しました。これが有名なエルトゥールル号事件です。この海難に地元住民が救援に駆けつけ69名を救出。報せを聞いた明治天皇は直ちに医者と看護婦を派遣し、救援に全力をあげました。さらに日本全国から多くの義捐金・弔慰金が寄せられ、1891年、生存者は日本海軍の「金剛」「比叡」の2艦によりオスマン帝国に丁重に送還されました。この事件とそれに対する日本の対応はトルコで大きく報道され賞賛の嵐を呼びます。この事件は今でも小学校の教科書に取り上げられていることからもその取扱いの大きさが計り知れます。さらにその後、日本が帝政ロシアと戦った日露戦争に勝利したことは、ロシアが永年の宿敵であり、ことある毎に辛酸を舐めさせられたトルコにとっては自国の勝利と思えるような感慨をもって受け止められたようです。そしてそのお返しは、イランイラク戦争のさなかに生まれました。イランから国外退去期限の1時間15分前というタイミングで、トルコが差し向けた救援機で216名の日本人が国外退去できたトルコ航空機による邦人救助です。この他両国には数えきれないほどの友好を証する出来事があります。

 今回、イスタンブールの旧日本総領事館において開かれた日土共同の絵と書の展覧会に出品し、オープニングパーティーでは家内が書のパフォーマンスを披露。その後は日本画や書のワークショップと、家内の書作の元となっている私の俳句について講演を行いました。

 家内の書のパフォーマンスでは、私がイスタンブールに到着した日に詠んだ「秋風や文化綾なす港町」という挨拶句を幅2メートル、長さ10メートルの日本から持参した和紙に、300人を超える来客が見守る中、家内が大書しました。書き終えた後には私が句の意味を説明し、エルダル氏が翻訳してくれました。場所を変えて芸文館という日土文化交流の施設では家内と同行した画家、書家の皆さんが日本画と書を、絵画に関心の高いトルコの方々に手ほどきをするワークショップがあり、2時間後には見事な日本画や書が出来上がっていました。その後、俳句に興味を持つ方々を集めて開かれた講演会では、私が「私と俳句」というテーマで俳句の講演をしました。日本の詩歌の原点が相聞歌であったこと、和歌はやがて連歌に、更には連句が生まれ、その発句が俳句になった歴史をお話しすると共に、そのため俳句には色濃く連句のDNAが刷り込まれていること、それだけに連句を知らなければ日本の俳句の理解はできないこと、俳句は世界最短の詩形でありながら森羅万象を映す鏡になりえること、そのようなことが可能である理由は日本画の空白と同様に、俳句には間や省略をその特質としていること等々。大変熱心にお聞きいただくと共に、終わってから軽く三つ物の連句入門でもやろうかとエルダル氏と話していたのですが、質問が長引き、遂に時間切れとなってしまいました。イスタンブールには4つの俳句グループがあり、あるトルコの俳人からは句集をいただきました。またその場で俳句を見せられて添削も頼まれました。英語でも良いので学習する本はないかとも聞かれました。俳句のルーツが連句であるという事実は、彼らにとってとても新鮮であったようです。

 イスタンブール及び途中に一泊で訪れたカッパドキヤで詠んだ句の一部を掲載します。

 (イスタンブールにて)

コーランの祈りの声の秋の朝
秋塔見ゆホールでケバブも出る朝餉
鰯雲モスクの塔を鳥ゆらと
コスモスや領事館へと続く道

 (日土展のオープニングパーティ)

日土展トルコの女の舞扇
月の夜の宴に大筆振るう妻

 (イスタンブール市内観光)

世界最古のモスクにそそと桔梗揺れ
スルタンも愛でし狭庭に秋の薔薇
ハーレムに宦官の部屋そぞろ寒
亜と欧を結ぶ海峡秋の潮

 (カッパドキヤにて)

鳩の谷遥かにトルコの秋の富士
色なき風奇岩の丘と谷巡り
地下都市を出てムスリムの秋夕焼
ギョレと言う捨てられし町秋愁

 (イスタンブールでの俳句の講演)

俳諧を異国語で聞く秋の庵
菊日和日土で交わす俳句論

 今回の私たちの訪土の返礼のような企画として、平成28年(2016)の5月に東京・町田市の国際版画美術館にて第6回の日土展が開催され、かの地から20数名の日本画や書を愛する人達が訪日します。町田市と在日トルコ大使館の協賛もいただいての開催となります。この企画がまた新たな展開と交流に繋がればと思っております。

年新た日土を結ぶ人の縁   秀四郎