俳句随想

髙尾秀四郎

第 40 回  季語と俳句について

 

一つ濃く一つはあはれ秋灯(あきともし)    青邨

冒頭の句は山口青邨のものです。秋の夜の町の灯を見渡して秋灯の濃淡に幸や不幸、貧富や絆の違いなどを感じ取った句です。「秋あきともし灯」という大づかみで一般的な季語を十二分に生かした句と言えます。 

今回はこのように一句の中になくてはならない季語とその季語を生かす句作について述べてみようと思います。今回のタイトルを「俳句と季語」ではなく、「季語と俳句」としたのには理由があります。俳句に必要なものとして季語があるのではなく、季語を含んだものが俳句であるだけで、季語は俳句が成立するずっと前からあり、主従の関係ではないことを表現したかったからです。 

季語を集めたものは「歳時記」です。季語の解説や例句などを省略した「季寄せ」と併せた季語集のルーツを辿れば、現存する最古の歳時記が6世紀の中国・荊楚地方の年中行事を月ごとにまとめた「荊楚歳時記」であり、これが奈良時代に日本に伝来して「歳時記」という呼称になったと歴史の本には記されています。やがて時代が下り、江戸期に入って俳諧が盛んになってきた1790年(寛政2年)に曲亭馬琴がまとめた「俳諧歳時記」が現在に至る歳時記のベースになっているようです。歳時記を新たに編む場合、当然その時点で利用可能な文献があり、それらを参照したはずですが、当時次のようなものが参照されたようです。季寄せとしての「年浪草」や「雪碇筆乗」、和歌用の詞集としての「和歌呉竹集」地誌としての「江戸砂子」等など。この馬琴の歳時記の分類は春夏秋冬の四季であり、その中に含まれる項目数で多いもの順に並べると、春秋夏冬の順になります。正月が春に含まれているとしても季語が最も多いのが夏である現代の歳時記とは随分と異なっていたようです。 

歳時記や季寄せは、当然にして俳句にとって必須のものですが、そもそも俳句のために編まれたのではなく、俳諧のため、連句のために編まれたものと言っても過言ではありません。この俳句が成立する前から存在し、俳諧と言う文芸の中で使われ磨かれてきた季語を「俳句の母」である連句から受け継いだ俳句は、この季語というエレメントをどう活用すべきかと言う点から私見を述べてみたいと思います。 

何か物を探す場合でも、論文を書こうとする場合でも、前提条件が明確な方がやりやすいということが言えます。単に「履物を探して」と言われると、誰が履くのか、どんな形なのか、用途は、色は、と悩んでしまいます。「女性用の靴でヒールが高く色は赤」と言われれば容易に探せます。俳句に季語が必要であることは、条件が決まっていて窮屈という意見もあるでしょうが、むしろ季語があるから作句は容易とも言えます。

五官を働かせて、感じたものを季語から探し、その季語を活かせる表現を考えれば良いのです。または詠むべき事物や状況があって、それをテーマにしたい場合には、そのテーマを念頭に、耳目や肌で感じるものの中から最も相応しい季語を選べば良いのです。 

私の専門分野の会計の中には簿記があります。ここでは全ての取引を「仕訳(しわけ)」として勘定科目と金額で表現します。この簿記の仕訳のコツは、借かり方かたと貸かし方かたに配する勘定科目の内、明らかに分かり易いほうをまず決めて確定させることです。その取引でもしお金が出るのであれば、お金の減少を意味する(貸方)現金とすると、借方には、資産の増加、負債の減少、費用の増加あたりしかないので、その中から順に、どの科目に該当するかを考えていけば、解は容易に導き出せます。句を詠む場合も変わりはありません。まずどの季語を使うかを決めれば、おのずと詠むべきものが決まり、その季語を見据えた表現を考えれば良いのです。詠む対象と季語が決まった時点で、句作の半分が終わったと言っても過言ではないと私は思っています。言い換えれば、句の良し悪しは詠む対象と選んだ季語でほぼ決まるとも言えますし、ここで踏み外すと、その後、句の推敲をしてもリカバーは相当に難しいということになります。 

冬男師が海外吟を多く入集された第6句集「荒星」から、秋の句を用いて、作句において先生がどの季語にするかを考えられた過程を私なりに推測してみました。

かまつかや恋を捨てれば老い早し  

歩くだけ歩き花野に染まりきる  

遊女寺風に朱を吐く葉鶏頭  

秋夕焼染む人妻とカフェテラス  

夢殿の朱のさびさびと秋の風

1句目は中七、下五の主張したい表現がまずあったと思います。その上で、この表現にぴったりの秋の季語を探されたのだと思います。なお「かまつか」は葉鶏頭の古語です。葉鶏頭では5音になりますが、ここは「や」で切らなければならないので、敢えて古語を使われたものと推察しました。2句目は秋の野を歩かれて花野がまず決まったのではないかと思います。この季語を軸にして構成された句であろうかと推測します。3句目は遊女寺がまずあり、この寺を詠もうと思われたのではないでしょうか。その上で、葉をもって花とする葉鶏頭の季語を選ばれたものと思います。4句目はパリでの句です。吟行のツアーに同行した女性を詠まんとして、秋夕焼が持ち出されたものと思います。5句目もまた夢殿を詠もうとされ、そこで使える季語を探されたものと思われます。このように、詠みたい事象がまずあってそれに相応しい季語を選ぶパターンと、季語をまず選んでその季語に相応しい物言いを考えるというように、明らかに文字化できる部分をまず決めて、不足する部分を補うという詠み方があると思いますし、これにより句自体の推敲に入ることができるので、より多くの時間を句の洗練のために使うことができるようになります。季語を詠みたいことに集中できる重要な要素と考えれば、季語が存在することによって句の深みが増すと共に、作句の負担がぐっと軽減されるのではないかと思うのです。

長き夜や季語探求のおもしろく  秀四郎