俳句随想

髙尾秀四郎

第 31 回  俳句と連句について(三)

 

逃げ水の果て敦煌のありにけり  冬男  
  砂漠の彼方若駒の群     秀四郎
大凧に夢の大文字描き上げて  春水

冒頭の三句は平成24年12月8日起首、同年同月14日に満尾となった「逃げ水の」の巻の発句、脇、第三です。すでに面会も叶わない状況にあられた宇咲冬男先生のご病気快癒を願って、師の代表句を発句として、渡部春水さんと両吟で巻いたものです。ナウの花の座と挙句は次のようなものでした

花万朶風雅の誠追い続け 春水 
  春の虹見ゆ故郷の山  秀四郎

 花の座には師のご本名の「誠」を入れ、師の故郷である埼玉の山に架かる春虹としました。同じ月の後半、除夜の鐘を聞く頃までに巻き上げた、同じく師からいただいた年賀状に書かれていた句を発句とした「年新た」の巻は次のようにスタートしました。

年新た海のひろ道巡らんと  冬男
  キャビンにでんと飾る門松  春水
頬に風パイプの煙靡かせて  秀四郎

またこの一巻のナウの花の座と挙句は次のように付けました。

西行が翁が愛し奥の花   秀四郎
  時空を超えよ春の歌声  春水

しかし我々の願いも空しく、翌年1月31日に師は黄泉の国へと旅立たれました。一周忌となる今年、改めてこの二巻をご紹介する次第です。

 連句は座の文学であり、座に集って捌(さばき)の発句からスタートすることが多いのですが、このように、その場にいない人の句を発句として巻くこともあります。さらには芭蕉翁等古人の句を発句とし、「脇起し」で巻く場合もあります。連句はこのように、時空を超えて付け合うことが出来ます。また、初めて出会った人々と付け合うことで、短時間での濃密なコミュニケーションによりその人となりの理解ができます。そして詠む対象に時間と空間の制限がありません。顕微鏡でしか見えないミクロの世界から、宇宙規模のマクロまで、目の前の現実から、深層心理まで、虚実合い混ぜて詠むことができます。先にご紹介した芭蕉が名古屋俳壇の人々と巻いた時のように命がけの真剣勝負もありますし、純粋な遊びとしても楽しめます。

私はかつて会計監査の現場におりましたが、監査は如意棒に喩えられていました。即ち、トヨタのような超大企業を一日で監査しようとすれば、それなりの監査はできますし、一年を掛けて監査することもできます。連句もまた、同様の柔軟性を持っているように思います。

紐解けば、連句は「俳諧乃連歌」を源流とし、その源は連歌及び和歌です。そしてさらに遡れば相聞歌にたどり着くと思います。人と人との間の文字や声によるコミュニケーションからスタートしたと言って良いようです。それはまた現代に最も欠けているものと言えるかも知れません。連句は今の時代に足りないもの、その足りないものを補えるものと思っております。

先に「連句は俳句の母」と書きました。この母は、切れ字や季語を持つ発句や季の句と平句から構成されていて、発句や季の句は「俳句」に、切れ字や季語のない平句は「川柳」に分化し、それぞれの分野を形成しています。しかし、連句の中でそう思うように、一人になれば季節の移ろいの中で俳句を詠みたいと思いますし、日常の中の出来事やとんでもない事件、時代の変化等に出会うと、季語も切れ字もない、川柳のような平句を詠みたくなります。短歌、俳句、狂歌、川柳は単なる表現形式の違いに過ぎず、全く別個のもの、どうしても固執し、守らなければならないジャンルではないように思います。個人としては短歌、俳句、狂歌、川柳を自由に詠み、数人が集まれば、座を組んで連句を巻く、そして思ったこと感じたことを伝え合い文字にする。我々はそんな表現のツールを持っている、と考えてはどうでしょうか。そう考えることは、短歌、俳句、狂歌、川柳を生み出した連句という「母」の願いでもあるように思います。

例えば、寺山修二は俳句の切れによる効果を短歌に持ち込み、味のある短歌を生み出しました。すでに本随想でもご紹介した「マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」は上の句と下の句の間を切って余情を醸しています。その他の短歌でも、切れを生かした作品が多々あります。また有名な俳句を短歌に詠みかえることも試みています。「莨火を床に踏み消して立ちあがるチェホフ祭の若き俳優」は草田男の「燭の灯を莨火としつチェホフ忌」を下敷きにして一味違う短歌に仕上げたものです。短歌と俳句は軽々と超え得る境界かと思います。

さて、前回書かせていただいた連句非文学論、俳句第二芸術論に対する私なりの回答をまとめてみました。ご笑覧ください。

・連句は芸術まで高めることのできる文芸(連句の全てが芸術ではない)但し、ルールを熟知し、連句の技術に造詣が深く、感受性豊かな捌きと連衆とのコラボレーションが必要

・俳句は文学になり得る世界最短の詩型(俳句の全てが文学ではない)但し、作者の思いを伝えるためには複数の句を集めた句集であったり、俳句と俳文との組み合わせである方が良い。

・連句は俳句の母、俳句は生みの親の連句を忘れるべきではない、但しいつまでも阿ってはいけない。

・俳句を詠む人も時には連句に戻るべき。連句を巻く人も四季の移ろいの中で、一人になれば俳句を詠み、良き俳句が生まれれば、その句を発句として回りの人々と連句を巻くべき。それはまた良い連句を生む好循環につながるはず。

・連句人が俳句を詠むのは義務ではない。必然性を持つ楽しみである。

連俳に絆ありけり母子草   秀四郎