俳句随想

髙尾秀四郎

第 29 回  俳句と連句について(一)

 

二の酉のすぎて寂しや寄席ばやし 桐雨

雪を催す万太郎句碑      冬男

冒頭の長句と短句は、共に鬼籍に入られた、元早大教授で西鶴研究の第一人者、暉峻康隆(てるおかやすたか)先生(俳号・桐雨)とわが師、宇咲冬男先生が文音で巻いた「二の酉の」の巻の発句と脇句です。この巻は、お二人の記念碑的共著となりました「連句の楽しみ」の中に収められています。二の酉ですから十一月です。初冬の東京下町の景の発句に対して、その場所が江戸っ子で下町をこよなく愛した久保田万太郎の句碑のある浅草と決め、雪催いの天象を詠み込んでいます。解説には、冬男師がオモテ六句に地名人名を出せないのは承知の上で打添付けで発句の句意を汲み万太郎句碑を付けたと書かれています。

人と人の間には会話が生まれ、愛情や友情が、また時として憎しみも生まれますが、それらがまた新たな感情や行動を生んで社会が動き、時代が変わってゆきます。それは少し時間のかかることですが、それを邯鄲の夢のように、走馬灯のように、短時間で、鮮やかに、文字として、一巻の詩として、仕上げてゆくものが連句ではないかと思っております。冒頭に掲げた「二の酉の」の巻などを読むと、つくづくそう思います。

本「俳句随想」を書き進むうちに必ず触れなければならないと思い続けていたテーマ「俳句と連句」を今回は取り上げようと思います。但し、このテーマはかなり重たいので一回では到底収まらないとも思っています。二回になるか三回に及ぶかは、今は申し上げようもありません。

縁あって俳句とともに連句も巻く俳句結社「あした」に入会したことがそもそもの私と連句との接点になりますが、連句というものに初めて接したのは入会後、冬男師の生家である熊谷の常光院で開催された「さきたま連句会」への参加でした。連句の式目さえも知らず、観光気分で訪れて座に混じったという、今にして思えば不謹慎極まりない姿勢で連句に接しました。捌き手は今も現役で指導されている小林しげと先生。また同じ俳席には「あした」の白根順子さんもおられ、苦笑いをされながらも何かとアドバイスをいただきました。その時に感じたことはまず、思いのほかルールが多いこと、及び捌き手の方が並外れて博識であることでした。実に沢山の引き出しを持たれていて、連衆のいかなる質問、いかなる句に対しても適切なご理解と選定をされ、様々な句の背景にある事物や歴史までも知悉されているということでした。この体験から、やがて自分も捌き手になって和歌三神を背に公平無私の心で連衆を導く役割を果たせるようになりたいと、おぼろげながらに思ったものでした。

このご縁の続きで、その翌年の元旦に白根順子さんからいただいた賀状に添えられていた一句「初富士の玲瓏なるを畏れけり」を発句として平成5年の年初から文音にて半歌仙を巻き始めました。ちなみに脇は「鷹舞う空の明けそめし彩」。文音では簡単な近況や季感、日常の瑣末な出来事、連絡事項などが添えられるため、知らず知らずの内にお互いの生活環境を知るようになりますが、これもまた連句の効用と言えると思います。習い始めの段階で一句に一日を要しても良い文音で巻けたことは大変有益であったと今にして思います。お付き合いいただいた順子さんには大変なご負担をお掛けしてしまいました。こうして巻かれた半歌仙はその年の国民文化祭の連句祭に応募作品として出され、入賞するというオマケも付きました。

俳句と連句を共に学び切磋琢磨するという俳句結社の性質上、多くの方が俳句も連句も嗜んでおられましたが、当時半ば当然のことのように、「連句を始めると俳句が荒れる」ということが囁かれていました。

この俳句と連句の関係性について、3つの観点から少し言及させていただきます。

①歴史から

鎌倉時代初期の連歌から余興のようにリラックスした内容の「俳諧の連歌」が生まれ、江戸時代に入って連句が成立し、かつ連句の発句に独立性を求めて切れ字が用いられるようになり、それがやがて明治に至って正岡子規により発句を独立させ俳句と称するようになりました。謂わば「連句は俳句の母」です。母が子を荒れた存在にするというのは理にかなわないという人情論はさて置き、連句を巻いて平句、無季の句を詠むことと、それで本来の俳句が荒れることとは、目的に応じて柔軟に対応できない作者自身に問題があるように思えてなりません。

②連句の本質から

連句の真髄は「付け味と転じ」であると思いますが、前句、打越、大打越そして発句を睨んだ付け味と転じが連句の醍醐味であると思います。それゆえ付け味の鋭さ、転じのうまさは、連句修行の中で最も磨かなければならない技であるし心得であると思います。この技や心得は俳句においても活かされるべきで、特に、俳句には必須の要素である季語への添い方においてこのスキルは遺憾なく発揮されると思います。従って連句を学ぶ者はむしろ質の高い俳句を詠める可能性を大いに持っていると言っても過言ではないと思うのです。

③俳句の超短詩型という宿命から

十七音という限られた言葉の範囲の中で、一音でも削る努力をした物言い、そして季語に過大な責任を負わせている俳句の中では、季語以外で、客観写生と見せながら、象徴的に、その写生された事物の裏側にある心境や思索、感慨までも述べる必要があります。それゆえに一句の中で季語への絶妙な付けが求められます。連句を究める程、そのスキルは磨かれるものと思います。論点はこの他にも俳句、連句は文学や芸術と言えるか、というテーマ等がありますが、これらについてはまた章を改めさせていただきます。

今年もオフタイムに俳句や連句に親しみながら、作句においては発句足り得る句をと思い、この感動や思いを表すのに、今の季節の季語ではどれが最も「付くか」を考えてきました。連句と俳句が親子とは言わないまでも、間違いなく不可分で相関するものであると実感しております。

年果つる連俳の海泳ぎ来て   秀四郎