俳句随想

髙尾秀四郎

第 26 回 宇咲冬男師を偲んで


露霜や星影宿ることはなし  宇咲冬男

 冒頭の句は平成二十四年十月度の宇咲冬男俳句道場への冬男先生ご自身の投句であり、我々門人が句会で先生から受け取った最後の句です。先生らしい「否定」によって締められた余情のある句に仕上がっています。

 先生の第二句集「梨の芯」を基点として、これを読んだ若い人達の俳句勉強会が「梨の芯」という機関誌を作ったのが発端となり、俳句結社あしたは生まれました。その四十年の歴史を受け継いだ俳句同人誌「あした」の五年目がスタートした平成二十五年一月三十一日、俳句結社あしたの創始者で俳句同人誌「あした」の監修者でもあられた宇咲冬男先生がお亡くなりになりました。

 その朝、いつものようにラッシュアワーを避けるため、七時過ぎにはオフィスに到着していた私の携帯が突然鳴り響きました。四日前にお見舞いに伺い、多分これが最後になることを覚悟していた私には、その電話の相手が誰であるかは分かっていました。

 「父が今朝方…」小久保泉さんの沈痛な声が言葉ではなく音としてしか聞こえなくなるほど胸がいっぱいになりました。その日、前年からの約束で、目黒付近で阿部一掬さん、佐々木彩女さんから、渡部春水さん共々、日頃の道場でのお礼の一席をと、お誘いを受けており、その夜には集まることになっていました。春水さんからは時を置かず、今夜はどうしましょうかという打診がありました。私は「偲ぶ会として集まりましょう」と申し上げて、その夜、先生との出会い、句会でのエピソード、憎めないお人柄等、春水さんが持参された雑誌の切り抜き等拝見しながら、しみじみと語り合いました。そして神は時として思いがけない配剤をなさるものだとも思いました。

 先生は生前「言いたいこと、残したいことは全て四十周年記念号に書いたので、何か困った時、迷った時には、そこに帰りなさい」と言われていました。そこには、あした四十年の歴史や功績、先生の国内外の足跡が克明に綴られています。またあしたの会を学識経験者が外の視点から述べられた著述も含まれています。通常の月であれば六十ページ足らずの俳誌を三百六十ページとして編集された記念号は、よくぞここまでと思わせるものでした。それだけに完成までの先生のご尽力や関係各位のご苦労はいかばかりであったかと、今更ながらに思います。

 この四十周年記念号を見てふと秦の始皇帝が建造した万里の長城の逸話を思いました。

 万里の長城は月から見える唯一の人工的な建造物であるとのことですが、この長城の建設時に膨大な数の人民を駆り出し、人柱まで建てての工事であったため、人民の怨嗟の的であったそうです。しかしその後、長きに亘って中国の人民を外敵から守る役割を果たします。そして第二次大戦後に樹立された共産主義政権によって、長城の外までが中国の領土となってからは、長城はむしろ交通や交易の障害になりました。しかし、拡大開放政策を取る現代の中国にとって、長城は世界遺産となり、なくてはならない観光資源になっています。つまり人の行為やその結果としての文物の価値は、それが偉大であればあるほど、評価に時間を要するということです。四十周年記念号は、制作当時、大変なご苦労があったと思いますし、しばらくその存在を忘れられていた時期もあったかと思いますが、先生がお亡くなりになられた今、その価値の見直しと評価がなされる時を迎えようとしているように思います。そこには正に俳句、連句のエッセンスが詰まっています。特に、先生にとって初学の頃、むしろ馴染めなかったと書かれていた松尾芭蕉の句が、その後の先生の芭蕉研究によって、境遇や仏との関わり合い、俳句、連句に身を置く決意をするに至る心境等、多くの共通点を見出し、芭蕉の生き様を自らの生き様に投影した「芭蕉とほとけの道」という講演録は、先生の生き方と句の理解を深めるのに不可欠の文献であると思っています。遺していただいた先生に改めて感謝をしたいと思いますし、この大いなる遺産を、これから生かしてゆかなければとも思っております。

 冬男先生の俳句の特徴を一言で述べさせていただくならば「断定と否定による象徴性」であると私は思っています。その上で、見事な切れの挿入と、思い切りの良い捨象が、スッキリとしていながらも深い味わいのある物言いになっている所以であると思います。先生のプロフィールを読むと、本音では小説家におなりになりたかったようです。新聞記者になり、多忙の中、寸暇をもって文学に触れる手立てとして俳句を詠まれたと書かれています。しかし俳句、連句の世界に入られて五十年も立てば、自ずと習い性が根付き、第二の性格に育つことは当然の帰結かと思います。言い換えれば先生の文章も思考も、かなり俳句的、連句的になられたと推測しています。そして、結社誌あしたを終刊とされた後、散文の世界に入られ、幾つかの著述をものにされましたが、やはり先生は骨の髄まで俳人であられたと思います。

 先生を偲ぶ本稿にて、私の好きな句を抽かせていただきます。当初ベストテンと思い選び始めましたが収まりませんでした。

妻かなし噛みゆけばある梨の芯

掌に遠き記憶の独楽きしむ

ゆけどゆけど大虹のしたぬけきれず

散るさくらふるさと海を持たざりき

花冷えや顔殺がれても立つ仏

乾坤の一滴となり裸なり 

カンナ散ってかくまで赤き花知らず

薔薇は実に人活き活きと薔薇の町

夜の雪や男も炎ゆる肌もてり

荒星の吹きちぎらるることはなし

逃水の果て敦煌のありにけり

春の波力を抜けと裏返る

一年の裏真っ白な古暦

 良寛和尚の末期の言葉として大要次のようなものが残っています。「どこにも行かぬここにおる。何も語るな、何も答えぬ。」先生は今も多分ここにおられるのだと思います。ただただ私達を見守って…。

春の虹あした季寄せに師は今も 秀四郎