俳句随想

髙尾秀四郎

第25回 俳句とエッセイについて

行く春や鳥啼き魚の目は涙   芭蕉

 冒頭の句は「奥の細道」の中で、「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。…」で始まる序に続いて詠まれた句です。長い旅に出ようとする芭蕉の繊細な感情を表した句です。芭蕉の紀行文は、年表によりますと、この「奥の細道」が最後であり、スタートは一六八四年(貞享元年)八月からの「野ざらし紀行」、次が鹿島詣(一六八七年、貞享四年八月)、「笈の小文」(一六八七年、貞享四年十月)、更科紀行(一六八八年、貞享五年八月)と続きます。従って「奥の細道」の旅は芭蕉の紀行文の集大成とも言えますし、この旅で芭蕉の句には「軽み」への志向が芽生え、蕉風の俳句が大きく変化するきっかけになったとも言われています。紀行文とは即ち旅日記ですが、芭蕉の紀行文は単に旅の日記にとどまらず、そこには句が詠み込まれている点でその他の紀行文とは一線を画すると思います。この旅日記と句の関係を、私は「俳句とエッセイ」であると思っています。今回は芭蕉の紀行文を例にとりましたが、我が国の紀行文や日記となると、紀貫之の「土佐日記」、「紫式部日記」「更科日記」などに遡ります。歴史を繙けば、このように自分のこと、自分の行動を一人称の散文(エッセイ)として綴るようになった背景には、平安時代の後期、当時の先進国であった中国と日本の文化を結んでいた遣唐使が停滞し、日本文化の主体性を確立する機運が生まれ、「かな」文字が生まれたことと無関係ではなかったようです。「かな」によって日本語の持つ感覚を自由に表現できるようになり、「かな」が和歌、物語、日記、随筆等の国文学を勃興させるトリガーになりました。思えば、俳句は日本人による「かな」の発明によって生まれた文芸と言えそうです。今回はこのような背景を持つ日本語の俳句とエッセイについて述べたいと思います。

 ビジネス文書の要諦と言われている言葉に「Summary to detail」があります。まず最初に何が言いたいかを言いなさい、結論が先で、その後に、「何故ならば…」とその理由、経緯などを述べなさい、という教えを象徴する言葉です。人が物事を理解するには、結論やまとめとセットで、理由、根拠、詳細な説明が必要であり、その両方がなければ理解は得られないと言うことのようです。そして私は常々、このSummary が俳句で、その説明や背景を述べる散文がエッセイであろうと思っています。

 トヨタ自動車の生産現場での効率化、改善活動の中から生まれた言葉「見える化」は生産活動の現場の流れを可能な限り文書や見える形で表現し、改善を促進する「可視化」の造語ですが、実際に「見える化」をすると経済活動が可視化でき、問題点が容易に検出され、改善が進むということを体験してきました。つまり「見える化」は多くの賛同者を得て衆知が集められる仕掛けと言えます。これと同様に、クラシック音楽のファンとオペラ、演劇のファンとはファン層が異なるとは言え、その数は比較にならない程、後者の方が多いようです。メディアで言えば、ラジオよりもテレビの方が「見える化」された媒体であるため、視聴者の数は飛躍的に多いということに重なります。俳句とエッセイは、ある意味で、エッセイと組み合わせることによって俳句が「見える化」されることになるのではないかと思います。また俳句はエッセイによってエッセイの言わんとすることを端的に表現することで、相互に補完し合う関係にあると思います。夫婦のことを表現する言葉にBetter halfがあります。切っても切れない最良のパートナーとでも訳せば良いのでしょうか。これと同じく、Best match という言葉もあって、こちらは最良の組み合わせとでも訳すのでしょう。俳句とエッセイについて、この二つは共に当てはまる言葉ではないかと思います。

 しかし、ここで反論もまた生まれるのではないでしょうか。「俳句に説明は要らないし、またすべきでもない」と。この意見もまた一理あると思います。名作と呼ばれる小説の映画化は過去、枚挙に遑がありませんが、名作を超える映画はいくつあったでしょうか。小説を読んで、私的には是非映画でも見たいと思って見に行って、期待通りであったことは未だにありません。つまり名作と言われる小説は映画にすべきではないのです。同じことが俳句に言えるかも知れません。その意味で、上記の反論を否定しません。但し、名作の映画化も、映画化した監督の解釈と考えれば、なかなか興味深く、また新たな視点での鑑賞にはなるでしょう。このように「見える化」は確かに理解しやすくする、曖昧なところを明確にする、多くの人が考えるステージを与えるという点で優れた手法ではありますが、算盤から電卓に変わって暗算力が落ちたとか、手書き文字からワープロに変わって漢字が書けなくなったこと、テレビを見ることで自らが考えること、想像することが極端に減ったことと同じことが言えそうです。

 長々と俳句とエッセイについて述べてきましたが、まとめれば、俳句とエッセイはお互いに補うことで新たな価値を生み出すような良好な組み合わせであると思うこと、それゆえ、今後もこの組み合わせで本俳句随想を綴って行きたいと思っていること、更に、今後は俳句の詠み方や、詠む対象毎の特徴、コツ等句作につながることにこだわらず、まず思うことを書き、書いたことのまとめや感慨としての句を載せるというパターンも少しずつ増やしてゆきたいということです。ま、要するにこんなところでしょうか。

遥かなる句作の道や春の虹  秀四郎