俳句随想
髙尾秀四郎
第 100回 宇咲冬男の俳句
赤とんぼ群れては明日の日を知らず 冬男
私の手許に「若菜」「心の章」「梨の芯」等と括弧書きで頭書され、その後に俳句が書き出されたB5判の手書き原稿のコピーがあります。冬男先生のご子息である小久保泉氏から、廃棄処分にするには忍びないので何かのお役に立てていただければ、と送られてきた冬男先生の書類や本等の荷の中にあったものかと思われます。最初のページには「若菜」と書かれ、寄せる詞と書かれた下には冬男先生の師である宇田零雨先生のお名前が記されています。この原稿を宇田先生の謦咳に接しておられた俳誌「くさくき」の代表で日本連句協会副会長の小川廣男さんに確認していただいたところ、宇田先生の直筆であるとのご判定をいただきました。
最初のページには8名の俳人の句が2句づつ書き出され、冒頭に双柿さん、4人目がたかえさん、そして7人目に冬男先生の名前があります。「双柿」はもちろん角田双柿さんであり、「たかえ」は高橋たかえさんのはずです。それぞれの2句は次の通りです。
たどり来て花菜の道のそうぞうし 双 柿
箱庭の峡の追憶ままならず 〃
からたちの花の白さや夜も匂ふ たかえ
夕焼けの空を背に負い麦を踏む 〃
そして冬男先生の2句の1句は「ゆけどゆけど大虹の下ぬけきれず」であり、もう一句が冒頭の句になります。この後にはそれぞれの俳人についての「~集」が続くのでしょうが、手許の原稿の2ページ目からは「冬男集」と書かれた冬男先生の句が並べられており、最後には宇田先生の次のお言葉が記されてあります。「浪漫精神をよく把握し得た作者である。だから生々しい体験を直ちに幻想の世界に移すことによって芳醇類なき浪漫的香気を醸し出すすべもよく心得てゐる。だが才能あるものは怠け勝ちなもの。それさへ克服してくれたならと思ふのみだ。零雨」と、才ある者の裏側にある危うさを心配されているお気持ちが伺えるお言葉が残されていました。
その横には冬男先生のご母堂の小久保妙哲尼様の「若菜会のこと」というト書きとともに次の句が記されています。「ままごとの馳走は蕗の薹づくし」 「冬男集」の箇所には30句が記されています。その中から6句を抽きます。
椿落ち詩のよみがえる歩を得たり
秋の水吾が影と佇つ影もなし
冬虹の舞へり瀬音にたへがたく
寒菊の黄よりも暗き灯をともす
遮断機降りて人凍雲にとらはれぬ
人拒み冬木は天にひかり合ふ
最初の句は横に昭和二十六年と書かれていますので冬男先生が二十歳の時の句ということになります。
次の「梨の芯」のページにには、跋文 文学博士 宇田零雨と書かれた後に次の文章が書かれています。
「草茎の主要作家の一人。学生時代から句作の哀歓をともにしてゐる。冬男くんの立派なご母堂と夫人を知ってゐるから云へると思うのだが母上の励ましと奥さんの理解があったから困難をのりこえられた。この十年「打撃に耐へて来た時期」であった筈。その中になおみずみずしい抒情を捨てなかったことを偉いと思ふ。その荒波にもまれながら溜息のようなものが現れ心の章は純粋で直截であった。これが時間的な流れの中に感情を沈めより象徴性を加へて来た。ただここで警戒すべきは反響を意識した句作におちいることがあってはならない。句集「梨の芯」は冬男くんにとってよき記念の集であると共に真摯に生きれば境遇的な困難なときでもこうした成果を示し得るということを教えて、同じ道をはげむ人々へよき贐けであるといえよう。実に十年老骨ではあるがその発展を見定めるべく生きたいと思ふ程である。好漢自愛されよ。昭和四十二年九月 文学博士 宇田零雨」(原文のまま、一部句点を加えました。)この時点で宇田先生は六十一歳ということになります。
「心の章」の発行から10年が経ち、冬男先生も新聞記者等を経て文筆活動に入られると共に、結婚し、子の親となり、奥様へ心配やご苦労を掛けてこられてきたことをご存じの宇田先生だからこそ書ける内容の跋文であるように思いました。
この跋文の後に合計267句が書き出され、その句の上に、小さな点や丸が付されていて、多分、宇田先生が評価された句に付けられた印ではないかと思われます。小さな点の付いた句はかなりの数に上り、丸のついた句はかなり絞られます。丸が付けられた句は267句の内の僅か3%に過ぎません。その丸の付された句を以下にご紹介します。その中には当然のように、句集の題名にもなった「梨の芯」の句も含まれていました。
柿食へば失ひし日々歯にしみる
蝌蚪生るるきのふの今日にあらざりき
母は消ゆることなき虹よ虹立ちぬ
天道虫花粉におぼれてはならじ
枯蔓引くと天のどこかで鈴鳴らむ
ガーベラの夜も朱ければこころ冷ゆ
妻かなし噛みゆけばある梨の芯
冬鹿の遠く見つめるものは何
思へば霜の深きあしたの誕生日
冬男先生は昭和33年(1958年)に「心の章」(冬男先生27歳)を、昭和43年(1968年)に「梨の芯の会」を創立されています。(冬男先生37歳)
冬男先生の著作を時系列で並べると次のようになります。
合同句集として「若菜」「座唱Ⅰ~Ⅲ」 句集は「心の章」「乾坤」「晨韻」自註現代俳句シリーズ「宇咲冬男集」「荒星」「虹の座」その他に晩年になって出されたエッセイ集があります。
合同句集の「座唱」は「梨の芯の会」の発足から5年ごとに発行され掲載俳人の数は次のように増加しています。5周年(1973年)に「座唱Ⅰ」連衆30名、10周年(1978年)に「座唱Ⅱ」連衆55名、そして15周年(1983年)には「座唱Ⅲ」連衆109名。この「座唱Ⅲ」には、俳句同人誌あしたに同人としてご参加いただいている8名の方々のお名前があります。その内容は、各俳人の25句の前にまず題名が書かれ、俳人のお名前と先生自らが書かれた各俳人のプロフィール及び先生が評価された数句も掲載されていて、先生がいかにこの合同句集に尽力されたかが伺えます。
この合同句集にお名前のある俳句同人誌あしたの方々のお名前、題名及び先生の抽出された句をご紹介します。
青木つね子 「ひと言を」
露けしや子の住む街は道白し
角田 双柿 「一湾一望」
ぼろぼろとなりてもカンナ燃えてゐし
小岩 秀子 「山形路へ」
みちのくの水美しき五月かな
白根 順子 「惑星」
紙箱の歪める四角半夏生
菅谷ユキエ 「遠き日色」
滝割れて千の言葉を忘れけり
高橋たかえ 「五月富士」
アカシアの花散り利根の白濁り
樋田 初子 「ギヤマン」
ギヤマンの簪ささることもなく
宮本 艶子 「八月の胸洞」
祈りてもある八月の胸の洞
一般的な言葉として「ギブアンドテイク」があります。辞書では、お互いに何かを与え、何かを受け取るという関係のこと。日本語では「持ちつ持たれつ」や「相互扶助」といった言葉で表現されることもある、と書かれています。しかし私は経験上、もっと深い意味を持つ言葉であり行動ではないかと思っています。そしてそもそも「ギブ」と「テイク」はかなり性格の異なるものではないかとも思っています。まず「ギブ」は今すぐ、即座に自発的に行うべきものです。一方、「テイク」には時間がかかることが多々あります。しかもそれは遅いからと言って催促すべきものでもないと思っています。「テイク」は場合によっては自分に戻るのではなく、子供や孫に至って戻る場合もあると思います。陰徳を積んだ人の家系の人が好運に恵まれることをしばしば見聞しますが、それは多分に過去に祖先が積んだ(ギブした)ものがその末裔に戻った現象に過ぎないのではないかと思います。この意味における「ギブアンドテイク」の観点で見るならば、冬男先生は随分「ギブ」をなさった方ではなかったかと思いますし、ご先祖が積まれた陰徳もまた十分に受けられた方ではなかったかと、この手書きの原稿や「座唱Ⅲ」を読んで思いました。
この「梨の芯」が上梓されてから13年後に、「梨の芯」からの冬男先生のファンを自認されていた瀬戸内寂聴さんが、冬男先生から贈呈された句集「乾坤」に寄せたお手紙の中に次の文があります。「文句なしに『梨の芯』より深い境地に進まれていて、一気に引き入れられ、巻をおいても尚、余韻が天空から響く風鐸の音のように幽かに鳴りつづけていた。」 そして、その中に多く含まれていた旅吟について、次のように書かれています。「~私は度重ねている自分の印度巡礼の日々を思い出し、こうも的確に短詩に感動を極めつくす氏の才能に嫉妬を覚えた。」
寂聴さんをして、句作の才能に嫉妬を覚えさせた冬男先生を師に仰ぐことが出来た好運を感じずにはいられません。冬男先生が創刊された結社誌「あした」の後継誌として第二の創刊を果たした「俳句同人誌あした」の中で、今回「俳句随想」が100回目となりますが、この100回目の一章を謹んで亡き先生に捧げたいと思います。